「NHK人間講座『日本語を問いなおす』」石川九楊 発
「『日本語を問いなおす』出発点、それは、『日本語は漢字と平仮名と片仮名という三つの文字を使う、世界に特異な言語である』という一言に始まり、またその一言に終わります。」 という言葉ではじまる本テキスト(本講座)は、著者(講師)の石川九楊氏が書家であり、書家ならではの卓見に満ちています。 たとえば、著者はこう述べます。 「文字を獲得する以前の人類は、(中略)一般には音声言語(音声によって表される言語)はあったが、文字言語(文字によって表される言語)はなかったとされています。(中略) しかし私は、この音声言語と文字言語を、『話す(はなす)言葉」』と『書く(かく)言葉』と置き換えてみたいのです」 これは大胆なパラダイム転換発想です。 著者はこう述べます。 「まず、『はなす』とはどういう行為でしょうか。 これは人間が身振りや手振りなど自分の身体や、あるいは口から発する音声を用いて、一つの表現をすること。 身体や音声を通じて『放す』ことであり、『離す』ことであり、そして『話す』ことです。(中略) 次に、『かく』はどうでしょうか。 たとえば、石や木を『引っ掻く』と、そこには何らかの図形が生まれたり、あるいは模様ができます。あるいは、同じく石や木を『欠く(欠かす)』とき、石や木の彫刻ができあがります。また、『描く』ことによって絵画のような表現も生まれます。 そういった『掻く』『欠く』『描く』のすべてが『かく』ことに含まれると考えれば、これもまた人類の誕生とともにあったはずです。」 以上のことを脳科学の知見に照らすとこうなります。 「はなす」ことは、感覚的クオリアからある志向性に基づいて志向的クオリア①をメタ認知する過程であり、 「かく」ことは、外部を媒介に表現しつつ得られる志向的クオリア②をメタ思考する過程である。 (参照:「脳科学において『閃き』そして『気づき』とは何か? 」) 本論では、本書の内容にそって日本語における文字のもつ働きに着目しつつ、発想という知識創造の重要なヒントになり、かつ脳科学の知見に裏づけられるポイントだけを解説したいと思います。 日本語において文字はいかなる特徴的な働きをしてきたのでしょうか? 著者はこのように基軸となるポイントを述べます。 「漢字のような表意文字とは『かきことば/文』(文字言語)を中心とする言語であり、 アルファベットのような表音文字とは『はなしことば/言』(声言語)を中心とする言語である」 これは、どういうことかというと、私たちは漠然と言葉は「文字を読み」「声を聞く」と考えています。しかし、英語でparkは公園であり、lectureは講演と、声を聞いて理解しても、日本語でコウエンと聞いてもどちらか分かりません。 私たちは前後の文脈から公園と講演どちらを言っているのか聞き分けています。著者は、この聞き分けにおいて、無意識的に「かきことば/文」を想定していると言うのです。 そしてこう総括します。 「『かきことば/文』を中心とする東アジアの言葉は『文字を聞き』『文字を話す』言葉であり、 『はなしことば/言』を中心とする西欧の言葉は『声を書き』『声を読む』言葉である と言えましょう。 アジアとヨーロッパとの文化の違いの根底には、この違いが大きく横たわっていると、私は考えています。」 以上のことを、脳科学の知見に照らすと、 英米人が相手の話す英語を聞く=「声を読む」のは、感覚的クオリアからまさに「はなしことば/言」という志向性に基づいて志向的クオリア①をメタ認知する過程である。 一方、 日本人が相手の話す日本語を聞く=「文字を聞く」のは、まさに「かきことば/文」という志向性に基づいて外部媒介に表現しつつ得られる志向的クオリア②をメタ思考する過程である、 ということになります。 つまり、英米人と日本人では、対話している時の脳内現象に異なりがある筈なのです。 みなさんは、ほんまかいな?と思われるでしょう。 またほんとうだとして、その脳内現象の異なりはどの程度のコミュニケーションの質の違いなのか?と思われるでしょう。 ほんまであることの解説をある専門家の本を紹介してする前に、どの程度のコミュニケーションの違いかについて、私の考えを述べます。 単純に、英語をマスターする前と後の違いだと思います。 マスターする前は、日本語脳で英語を聞いている。つまり、無意識的に「かきことば/文」で想い浮かべている。日本人であるあなたは、英会話はできないのに、英語のスペルミスがないこと、文法は正確に理解していることを、外国人に指摘されたことはないですか。それは、「かきことば/文」で想い浮かべてしまう日本語脳のためでしょう。 一方、英語をマスターした人は、英語でも喧嘩ができるとか、英語で夢を見ると言います。それは英語の「はなしことば/言」をそのまま聞くことができる英語脳のためでしょう。 リチャード・E・ニスベットという社会心理学者の著わした「木を見る西洋人 森を見る東洋人」という本があります。その英語のタイトルは、THE GEOGRAPHY OF THOUGHT で、副題はHow Asians and Westerners Think Differently...and Why です。 これに、以上のことがほんまであり、しかもコミュニケーションに大きな質の違いを生んでいることを解説する記述が、科学的な実験結果とともにあります。この本については稿を改めて詳しく論じる予定です。 ニスベット氏らの科学的に検証しようとする仮説の一つは、 「西洋人はものごとをカテゴリーに分類することに強い関心をもっている」 一方、 「東洋人は状況依存的であり文脈を理解することに強い関心をもっている」 ということです。 これをニスベット氏は科学的実験で検証しているのですが、このことは、 前者が、英米人が相手の話す英語を聞く=「声を読む」ためには、カテゴリーというのが決定的に重要で、parkとlectureは峻別されていなければならない原理原則に由来し、 後者が、日本人が相手の話す日本語を聞く=「文字を聞く」ためには、話の状況や文脈からコウエンが公園なのか講演なのか判断しなければならない原理原則に由来する ということと符号します。 つまり、英米人と日本人では、対話している時の脳内現象に異なりがあり、しかもそれが土台となって、コミュニケーションの質そして思考の違いにまで展開していることは確かなのです。 ニスベット氏の行った科学的実験はあくまで認知心理学的なものであって、それが脳科学の知見とどう連携するかは極めて専門的な知識と判断を要することです。 ですから、西洋人と東洋人の間の脳内現象の違いがどういう過程や経路をへて思考やコミュニケーションの質の違いにまで展開するかについては、慎重な検討を要します。 しかし、ヒトが母国語で考える以上、その制約を認知全体が受けることは明白です。 ニスベット氏の行った一連の「何に注意を向けるか」の実験は、脳内現象が深く関わる無意識的な注意という認知過程の第一歩における、言語による制約の違いを示すものである、ということだけは間違いありません。 (このことは「適応性無意識」に関係しますが、ここでは煩雑さを避けて論じません。) ちなみに、ニスベット氏の実験では、母国語のみを話す東洋人とバイリンガルの東洋人の比較も行っていて、後者では西洋人と東洋人の中間的な結果を得ています。 私は、ニスベット氏の東洋人についての実験成果を尊重しながらも、母国語のみを話す中国人・韓国人・日本人における「文字を聞く」特徴的な働きについて比較検討したいと思います。 科学的実験ができる訳ではありませんから、あくまで仮説にしか到達しませんが、相対的な異なりとして日本人の特徴を仮説することはできると思うし、東洋人として十把一絡げにできない以上、仮説すべきと思うのです。 私はまず、中国人・韓国人・日本人の「文字を読む」特徴がそれぞれの「文字を聞く」特徴に反映すると前提します。 中国は、言うまでもなく漢字だけを使っています。 韓国は、現代ではいちおう公的には表音文字であるハングルだけを使っています。 日本は、漢字と平仮名と片仮名を使ってきました。 そのことでどんな違いがあるかです。 新聞などをパッと開いた時、たとえ小さい字の文中の単語でも関心ある単語が目に飛び込んでくる、という経験は誰しもあると思います。それは、受動的に感覚的クオリアを無意識が受け入れていて、関心という志向性があるためにその単語を意識に浮かび上がらせた過程と言えます。 この過程は、東洋人も西洋人もある訳ですが、表意文字の漢字の新聞を見る東洋人の方が効率的にできるのではないかと考えるのは、ひいき目というものでしょうか。 確かに、アルファベットに慣れ親しんだ英米人にしてみれば、漢字ばかりの人民日報はごちゃごちゃしすぎている印象があるでしょう。それは、仮名混じりの文章に慣れた日本人からしてもそうです。 だからひいき目の延長かも知れませんが、いちおう私は、 画然と密な漢字だけが、疎な柔らかい曲線の平仮名や多少弓なりの直線の片仮名の中で浮き立って見える日本語は、断然、単語の表す概念同士の関係性を読み解くのに圧倒的な効率性を持っているのではないか と思うのです。 理由は大きく3つあります。 1つは、単純にてにをはや送り仮名を除いた重要概念が見やすいということです。 このことには、多少弓なりの直線の片仮名もその異なるニュアンスから見分けやすいということを付け加えてよいでしょう。 まずタンジュンな視覚の効率性です。 1つは、重要概念である漢字同士の相互関係をいわばモンタージュしやすいということです。 斜め読みとは、直接的に意識でてにをはや送り仮名を読まずに無意識にいったん委ねるという行為と、意識で漢字の概念の相互関係を類推確認しながら読むという行為ではないでしょうか。人によって、両者の比重は異なるでしょう。 ちなみに、本のページをぱらぱらとやって読んでしまう速読は、いったん視覚で感覚的クオリアを無意識に取り込み、後から志向的クオリアを意識に汲み取るという離れ業で誰でもできることではありません。しかし、てにをはや送り仮名を無意識にいったん委ねるというレベルで、しかも漢字概念は意識で追うとなれば、万人がある程度できることです。 つまり読解の効率性です。 いま1つは、漢字、片仮名、平仮名の使い分けによって、それぞれが担う暗黙知の体系的ニュアンス(旅館に宿泊、ホテルにステイ、やどにとまる)という志向性が無意識的に受発信されるということです。 つまり、暗黙知の効率性です。 (参照:「私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その6=暗黙知をネットワークする<和漢洋の言葉遣い>」) 以上は「文字を読む」つまりは黙読する際の文字のヴィジュアルに由来する事柄ですが、少なからず「文字を聞く」にも反映します。 いな、反映するように日本語の発音の仕掛けが作られています。 漢字の漢語は音読み、たとえ漢字遣いでも大和言葉は訓読みで「てにをは」と馴染みます。カタカナで外来語を表現するようになるとカタカナ英語は英語っぽい発音に造語され、ナポリターノなどカタカナ伊語は伊語っぽい発音に造語されます。すると、ちょうど和漢用が混在する文章を見てそれぞれが識別されるように、和漢用の混在する発言を聞いてもそれぞれが識別される。 私は、和漢用の「それぞれが担う暗黙知の体系的ニュアンス」において、文字の視覚的な印象である「文字をかく」クオリアよりも、言葉の聴覚的な印象である「言葉をはなす」クオリアの方が、日本人同士のコミュニケーショんにおいては多大な働きをしているように思います。 たとえば、カタカナ英語を織り交ぜて話せば「アメリカ出羽守」的な人の話がかっこ良さそうに聴こえたり、逆に軽佻浮薄に聴こえたりするのは、明らかにカタカナの文字の印象ではなくて英語っぽい発音のためです。 また、戦前、戦意を高揚するような漢字熟語が新聞そして演説において多用され、一般庶民の日常会話にも展開したことが、戦後すぐに反省された、ということがありました。この戦意を高揚するニュアンスは、新聞紙上の漢字熟語という文字の印象もありましたが、典型的には軍艦マーチを背景とした大本営発表における「意気軒昂」たる発声の印象が大きかったと思います。この感じは、ハングル文字の新聞では分からないニュアンスを北朝鮮のテレビニュースで感じ取れるのと同じです。 つまり、3つ目の要件が、私たちが日本語の話を聞く「言葉を読む」際に重要に働いている訳です。 ここで話を整理するとこうなります。 和漢洋の文字を使う日本人が、漢字だけを使う中国人と違うのは、 「文字というビジュアルを読む」ことの効率性がより良いということだけでなく、 「文字を話した際に伴うニュアンスを聞く」ことの聞き分けがより歌のように繊細であること、 この2つある。 そして、 和漢洋の文字を使う日本人が、表音文字のハングルだけを使う韓国人と違うのは、 「文字というビジュアルを読む」ことの効率性がより良いということ、 この1つだけで、 「文字を話した際に伴うニュアンスを聞く」ことの聞き分けが歌のように繊細であるのは似通っている。 そもそもの大和言葉と古代朝鮮語との親近性がまずあり、それに漢字との合わせ使いを似通った文法においてする、という土台が同じです。 そして、大和言葉も古代朝鮮語も文字のない話し歌う言語であった経緯からか、日本と朝鮮の民謡にもニュアンスの親近性があります。その両者の親近性は中国の民謡と対比すれば明らかです。 和漢洋の言葉を織り交ぜて書いたり話す日本語ですが、その骨格や旋律は大和言葉であり、それは歌う言語、あるいは踊る言語でありました。 つまり、 両者ともに、著者の言う 「人間が身振りや手振りなど自分の身体や、あるいは口から発する音声を用いて、一つの表現をする」言語、 「身体や音声を通じてはなす(『放す』『離す』『話す』)言語 であり、そこが似通っているベースです。 この日本語と韓国語のはなすニュアンス、うたうニュアンスの親近性は、和歌と「時調(ジジョ)」の親近性にみてとれます。「時調」は、三・四・三・四/三・四・三・四/ 三・五・四・ 三の音数律を基本とする詩歌で、10~12世紀の高麗時代前期が形成期とされ、7~9世紀の三国時代〜統一新羅時代が胎動期とされます。後者は和歌の形成期と重なります(万葉集は7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた)。 私たちは、ニスベット氏の東洋人と西洋人の比較を超えて、さらに漢字文化圏の3民族の比較をして、はじめて日本語の言語的特徴に行き着き、さらには日本人の発想思考の特徴にも行き着くことができる。 ここでは、そういう道筋だけを確認しておきたいと思います。 私たち日本人が中国人・韓国人同様に誰かの話を聞きながら「文字を聞く」ことに話を戻します。 話者のコウエンという発声を、公園かな、講演かな、好演かなと前後関係から類推しながら「文字を聞く」のは、志向的クオリア②のメタ思考する過程です。 この過程で、日本人は中国人・韓国人との異なりとして、漢字・平仮名・片仮名を無意識に想い浮かべるのか? という疑問が湧いてきます。 これは微妙ですが根源的な論題です。 まず当たり前のことを確認しなければなりません。 私たちは覚えた文字、つまり書けるようになった文字のみを想い浮かべることができる、ということです。当然、文盲の人は文字を想い浮かべることができません。 では、平仮名、片仮名を覚えた子供は、それらを無意識に想い浮かべて話したり聞いたりするのでしょうか? それもないように思います。 なぜなら、意識と無意識がほとんど未分化な赤ん坊の段階、文字の存在など知らない内から、これがパパらしい、これがママらしいと理解し、やがて自らもパパ、ママと発声するようになります。 そこに文字は介在していません。 私は、子供だけでなく大人も、てにをはや送り仮名などの平仮名=表音文字は、無意識にも想い浮かべないのではないかと思います。 歌を歌っている時、慣れ親しんだ歌であれば、たとえ歌詞を忘れてもハミングでメロディやリズムだけはとれる。 平仮名の大和言葉の部分はおおよそ、歌で言えばメロディやリズムのような話の骨格に当たるのではないでしょうか。 子供は、憶えた漢字=表意文字だけを無意識にあるいは意識的に想い浮かべて、人が話すのに対して「文字を聞く」ことができるようになっていく。 この母国語の文字を憶えつつ人の話を理解する能力を高めていく過程は中国人も同じですが、中国人は言葉すべてを形成している漢字=表意文字を思い浮かべて「文字を聞く」ことができるようになっていく。 韓国人は、いちおう公的には言葉すべてがハングル=表音文字で表現されるようになって以来、英米人がアルファベットを読むのと同じに「言葉を聞く」ことができるようになっていく。 もし中国語と韓国語に比べて、日本語の「文字を聞く」行為が、以上のクオリアの受発信を中国語や韓国語より視覚的には効率的に、聴覚的には韓国語と同等に微妙にしているならば、それは私たちの「物事を母国語で考える」脳内現象にも少なからず影響し、日本人ならではの発想思考の特徴をもたらす一因となっている可能性があります。 どの国の言語も、視覚的な効率性と聴覚的な繊細さをもっています。 私が論じているのは、どのような方向性で効率性と繊細さが想定されているか、それはどのような言語の仕掛けによるのか、ということです。 特段に日本語だけが優れた言語だなどと主張するつもりはないことを、蛇足ながら付け加えておきます。
by cpt-opensource
| 2016-03-25 06:17
| 発想のリソース 日本文化論
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私は自分が実際に日本の企業社会でした経験から普遍的な文脈や客観的な法則を導くために雑学する雑学者です。
「コンセプト思考術」も、フリーランスの構想企画者として複数業界で複数大手の仕事をした30代までの体験に基づき40代にノウハウ化、企業や自治体に研修したものです。 40代、様々なプロジェクトのプロデューサーとして集団や組織と関わった経験から、日本人ならではの発想思考や集団独創を肌身で感じとり、50代、それについての仮説を検証すべく科学や歴史を雑学してきました。 還暦になる今年を期に、これも本ブログで整理していきたいと思います。 20世紀後半、戦後日本の企業社会そしてマーケティングの実際はどんなものであったか、一般的に確かに息づいていた日本型経営や日本人ならではの集団独創とは実際の現場としてはどんなものであったか、ご興味ご関心のある方におつきあいいただければ幸いです。/ その他のジャンル
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