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「信長志向」の総括に信長が向かった経緯を確認する(3)

「信長革命 『安土幕府』の衝撃」藤田達生著 角川選書刊 発



(1)http://conceptos.exblog.jp/25736438/
   「改革者」としての信長
   信長が「改革者」にいたる3ステップ


(2)http://conceptos.exblog.jp/25753783/
   「都市型領主」と「ムラ型領主」、あなたの会社の経営は?
   第一ステップ=尾張時代の軍隊の「信長志向」化
   第一ステップ=尾張時代の軍事体制の「信長志向」化
   第二ステップ=岐阜時代の経済体制の「信長志向」化



第二ステップ=岐阜時代の軍隊の「信長志向」化


「戦国動乱の中核には、現将軍と将軍相当者との戦いがあった」
前項(2)で検討した、環伊勢湾を地盤とする足利義澄系統vs環大阪湾を地盤とする足利義稙系統の対立である。
また、
「一部を除き在京を原則としていた守護が、続々と本国に帰還したことから、彼らが守護権を代行していた守護代や、守護不介入の権限を有していた奉公衆と衝突することも少なくなかった。
 戦国時代後半においては、守護・守護代、奉公衆の淘汰戦が繰り広げられた結果、一国を統一し、さらには数カ国規模の領国を支配する戦国大名権力が樹立した」

「この段階の地域社会では、所領の境界をめぐる戦争、いわゆる境目戦が全盛となった。
 境界は、時として郡規模にも及ぶゾーンとして存在した」
「境界地域には、城館が集中的に配置され精兵が投入されたため、民衆は極度の緊張状態におかれた。彼らは、戦渦に巻き込まれないための代償として、対立する両勢力に租税を半額ずつ納入したり(『半手』)、時には二重払い(『二重成』)さえ強いられた」

信長が、隣接する今川義元や斎藤義龍と繰り返したのも所領の境目をめぐる戦いだった。
私たちは、戦国時代の戦というと「◯◯の戦い」という雌雄を決する大会戦ばかりを想い浮かべてしまうが、実際にはそれは最終決戦であってその前に長い前哨戦があった

「戦国大名間の戦争では、万単位の軍勢が動員され、大会戦や攻城戦が行われた。しかし軍隊内での足軽以下の雑兵の割合がきわめて高く、兵站の確保に限界があったため、なかなか敵方と雌雄を決するまでには至らず、長期にわたって所領の境目をめぐる戦争を繰り返した。
 もちろん敵城の周辺に陣城・付城を築くこともあるが、それは小規模で限定的だった。付城戦は時間と戦費を必要とするから、それよりも敵領に侵入して刈田や放火をおこなって心理的な圧力を与え、敵方の内応を画策するという戦術が基本となったのである。
 つまり消耗の激しい主力決戦や攻城戦をできるだけ回避して、粘り強く調略をおこない、勝機に臨めば一挙に勝敗を決するというものだった」

ここで確認したいのは、
最終決戦の勝利を確実のものにする方策が野戦築城、「付城戦(つけじろせん)」だったこと、
そして付城戦の活発化にともなって、野戦築城技術と鉄砲など火器の利用が高度化していったことだ。
「鉄砲の大量使用を効果的にするには、敵方勢力の攻撃から身を守りながらの射撃できる陣地の構築が必要だった」のである。


長篠の戦いは、三千挺の鉄砲の三段編制による一斉攻撃で有名であるが、近年の研究においては否定的である。当時の信長の鉄砲の保有量や、三段編制の現実性・効果性などが疑問視されているからである。(中略)

 この戦争の重要性は、なんといっても野戦築城による鉄砲戦が、敗者側に従来とは比較にならないほどの損害を与えるだけではなく、(中略)勝者側には負傷者がきわめて少なくてすむという魅力的なメリットを生んだことである」

著者は、第二ステップの岐阜時代の最後を仕上げた、長篠の戦いでの「野戦築城による鉄砲戦」というイノベーションに注目する。

「環伊勢海諸国を基盤としたのち、信長の戦争は一時的な勝敗を問題にするのではなく、占領地域を領国に編入し、さらには敵対勢力の息の根を止める殺戮戦へと変化した。
 まさしく長篠の戦いで実証した野戦築城、すなわち付城群を有効に活用した戦術---付城戦は、それに照応するものだった。

 付城戦には、付城群をつなぐバリケードとして逆茂木や土塁が普請され、堀が伴うことがあった。したがって土塁が巨大化した水攻めも、その一形態に属する。
 信長をはじめとする天下人たちには、付城戦を遂行する技術と資本が蓄積されていたのである」

「攻撃・守備拠点としての機能を果たす陣城・付城・陣所などの要塞を、敵城の周囲にごく短期間に多数構築して敵対勢力を孤立させるという戦法は、戦国時代末期から織豊時代にかけて全盛となった。(中略)

 信長の付城戦には、二つのピークがあった。
 第一のピークは岐阜時代(筆者注:第二ステップ)にあたる元亀年間である。義昭の指示で大阪本願寺と浅井・朝倉両氏、そして延暦寺などが連携したことに応じて、信長が近江小谷城と近江和佐山城、比叡山、大阪本願寺などに対して付城群を築いた」

この時には、付城同士をつなぐ要害や高い築地(土塁)を構築し、その外側に堀を堀った。こうした付城をバリケードで結んだ目的には、敵が兵糧を調達するルートを絶つことの他に「安全な連絡路の確保」「敵の連絡路の遮断」ということもあったようだ。俊敏なる情報把握を踏まえた大局観をもった臨機応変な応戦が勝敗を分けた。

「第二のピークは、安土時代(筆者注:第三ステップ)の天正六年(1578)から同七年にかけてである。ほぼ同時に(中略)普請された付城の総数は、百を下らないと推定され、以後これだけの規模で同時に付城戦が展開することはなかった。(中略)信長が義昭によって編成された広大な包囲網と厳しく対峙した時期と重なる。(中略)
 信長は、一丸となって抵抗する西国勢力に対して付城戦を敢行した」


注目されるのは、
膨大な付城群には、常に多くの兵力が駐屯していたのではない。たとえば、明智光秀は有岡・三田・八上などの陣所をしばしば移動していた。
 付城戦は、少ない兵力で敵方を釘付けにするばかりでなく、(筆者注:西国勢力に兵糧を入れる)毛利氏の出方をさぐる(筆者注:情報収拾の)ための格好の戦術でもあった
ということである。

今で言えば、銀行の支店が地方に展開し、本店のエリートが転勤してこれを管理することで店舗網としての営業体制を強化していった、ということに相当する。
無論、光秀の場合は転勤族というよりも、移動指揮官として多忙を極めたと言うべきだが。
光秀は、将軍側近でもあったことから、西国勢力の情報を収拾して分析したりそれを踏まえた諜報を戦術と連携させたりしたのではないか、と想像する。
そういう成果を想定すると「安全な連絡路の確保」「敵の連絡路の遮断」という目的もあった膨大なバリケードのコストの合理性が見えてくる。


摂津・丹波・播磨の諸大名は、一斉に信長を離れて大阪本願寺と連携した。彼らは共同戦線を形成しており、後詰勢力、すなわち足利義昭を推戴した毛利氏が、上洛戦を開始することを待望していたのである。この時期、(筆者注:荒木)村重の持ち城である摂津花隅城には、義昭が軍監として特派した近臣小林家孝が詰め、毛利氏と連絡を取っていた(古簡雑載)」

この西国勢力が信長に挑んだ戦いの全体は「上洛戦」であり、戦いの一つ一つは「毛利氏の上洛への道程の確保」が目的だった。
信長の応戦の目的はこれの阻止であり、毛利氏への攻撃だった。後者は秀吉が担当した。
こういう戦いの大局において、敵の内情を知りいかに目前の敵を揺さぶるかに関わる情報戦が重要だった。

さらに、戦争は産業化していて軍需情報を先取して競合を出し抜く情報戦も重要になっていた。
こうした多角的な情報戦を統合する情報戦略でもある、最小限のコストで最大限のベネフィットを上げる攻略方針を練るのが指揮官の仕事だった。そこで最も有効な攻略方針とは、それが完成し実際の戦闘に及ばない段階で、敵の援軍も派兵を躊躇し敵が降伏するなり和睦を求めるなりするものであった。
こうした指揮官としては、光秀や秀吉のように情報リテラシーと転戦モビリティに長けた人材が重用され活躍し、彼らが信長が天下人となるに大きく貢献したと言えよう。
ある意味、それは現代のビジネス世界にも通じる人間模様である。


上洛を果たした後、信長の戦争はあたかも大規模な土木工事になっていった。
 番匠・鍛冶・鋳物師(いもじ)・金掘(かねほり)などの多様な職人集団を大量に動員する本格的な消耗戦となり、高度な軍事技術と莫大な資本を集積する上方を支配した権力のみが、天下の実験を掌握する段階に到達したのである」
「高度な軍事技術と莫大な資本を集積する」拠点が、中世寺社勢力のベースであった境内都市であり、国際交易と国内流通の要であった堺のような自由都市であり、両者が信長のターゲットになった。

「特に武士身分出身でない羽柴秀吉などは、ほとんど抵抗なしに物量戦としての戦争を受け入れることができた。商人的な才覚豊かな秀吉は、むしろそれを積極的に敢行し、自らの経済基盤を確立する商機と位置づけていた節すらある。(中略)

 諸国から派遣された大量の人夫と豊富な資材によって、きわめて短期間に築城する技術は、打ち続く戦争を通じて進化したものだったが、(中略)秀吉の場合は桁違いであった」

軍備や兵糧の確保はもちろんのこと、土木産業化した戦に対応した職人集団や資材や人夫の確保のために、現代日本の商社が特約店を組織するようなことを秀吉は得意としていたと考えられる。

「戦争に臨んで山上に陣城を構えることは、戦国時代から普通にみられた。秀吉の場合は、早くから天守的な高層建造物をもった城郭を短期間に普請した」
こうしたことを可能にしたのも、秀吉の「職人集団や資材や人夫の確保」の手腕だった。
これだけ付城戦が広範化すると、秀吉が自前の特約店を抱えていたと考えるよりも、その時々に臨機応変に特約店づくりを俊敏にしたと考える方が合理的である。
私は、秀吉の現場仕事においても、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」が成功の鍵となったと考える。集団を身内で固定する「家康志向」では、とても同時多発的な戦局とその刻々の変化に漏れなく俊敏に対応しきれないからである。

ちなみに家康が開いた江戸幕府、その基本「無事の世」対応の幕藩体制では、藩士の誰が何を担当するかは世襲で決まっていて、御用を請ける業者も決まっている「家康志向」になっていく。
それはバブル期まで盛んだった企業系列や、今も堅固に存在する省庁と特殊法人やグループ企業の関係、原子力ムラの政官財報道癒着の関係に継承されていく。日本ならではの集団志向となり、それに当たり前のように自然体で対応するメンタリティは日本人の血肉になっていった。

一方、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」は、信長の死によって、組織や集団を貫く社会原理としてはすでに秀吉政権から衰退、徳川政権樹立とともに例外的な運用を除いて一掃された。
その後、社会原理として表舞台に出てくるのは、坂本龍馬や勝海舟のような幕末の幕藩を超越した志士の動きや、樹立当初の明治政府が旧幕臣でも有能な人材を重用した抜擢などまで二世紀以上の年月を待たねばならない。



第二ステップ=岐阜時代の知識創造体制の「信長志向」化


「水攻めでも大堤の要所に櫓をもつ付城を構えた。陣城や付城、それらを結ぶ土塁や水攻め用の堤防などを普請するために、近隣から大量に百姓が動員された。彼らには賃金が支払われ、たちまち市が立ち町場が形成されたという。(中略)

 天下統一戦に伴う戦時経済の活況は、京都を中心とする首都市場を復活・拡大させたが、同時に地域社会でも戦時のさまざまな動員や平時の築城や城下町建設をはじめとする『公共事業』によって、一時的にではあるが民衆の雇用を促進したということができよう」


陣城や付城の建設で発生した有事市場は一過的であり、主に移動民の商工業者によって担われたと考えられる。
一方、本拠の城や城下町の建設で平時発生した市場は継続的に拡大するものであり、主に御用業者の転住民の商工業者によって担われた。彼ら多様な職人集団は城下町の一画の職人町に暮らした。それは見えがかりとしては定住であるが、本拠の城が移転する前提の信長の場合、実質的には転住であった。
いずれにせよ、市場も商工業もネットワークとして発展していき、それら全体が重商主義の信長政権によって管理運営された。

そして社会原理として、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」が社会全体で活性化したと言える。


鉄砲とそれを最大限活用する付城戦による
軍事革命を支えたのが、制作者としての鉄砲鍛冶集団の成立である。堺や国友村の鉄砲鍛冶が、その代表であった。
 しかし鉄砲のみならず、それに必要な玉薬(焔硝に炭と硫黄を融合した黒色火薬を細粉にしたもの)や玉の原料である鉛を調達する武器商人なくして、購入者と生産者は結びつかない
 鉄砲の量産システムは、鉄砲職人(生産者)---鉄砲商人---武士(購入者)という三者間の緊密な関係が成立しなければ、誕生しなかったのである。

 それだけでは、まだ鉄砲の実戦への導入にはつながらない。火器の取り扱い全般に長じた砲術師によって、鉄砲の扱い方や火薬の調合法が戦闘員(大名から足軽に至るまで)に広く浸透せねばならないのである。さまざまな鉄砲、さらには大砲---石火矢・大筒・国崩・仏郎機(フランキ)など---の戦場への投入によって、戦争に本格的な科学的知識が要求されるようになった」

この「砲術師」は、IT機器企業がセールスエンジニアを抱えるように武器商人が擁していたケースと、ITコンサルタント企業が派遣コンサルタントを抱えるように砲術師集団で活動したケース、両者が融合していたケースが当初あって、徐々に顧客企業の中にCIO(Chief Information Officer)やIT管理者が内生化していったように大名や家臣がエキスパート化していったのではなかろうか。
いずれにせよその知識創造体制も、そもそもは外部人材に依存していて、人材を内生化した後も新製品の導入に関しては外部人材によるしかなく、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」にあったと言える。
内生化が完結すれば、集団を身内で固定する「家康志向」になるが、砲術の進化が著しく最先鋭の技術は外から入ってくるしかない。それを効率的かつ偏りなく収集するには「信長志向」の知識創造体制は不可欠だった。


私たちは、鉄砲というと種子島にポルトガル人が伝来させた、と学校で習ったことを思い起し、それが国内で模倣なり改良されていったと単線的に想像してしまう。
しかし、著者は、
「鉄砲については、近年、東南アジア伝来説が注目された。これには反論もあるが、伝来にはポルトガル人のみならず王直に代表される中国人の武装商人集団(倭冦勢力)も関与した」
ことに触れている。

常に、客観的に競合より高度な技術が要求されるところ、戦場はその最たるものである。
常に最先端の知識およびそれを担う知識労働者が求められた。
そしてそれはその性質上、内向きの定住社会の受動的な人材では勤まらない。外向きの転住社会の能動的な人材が、転住によって多様な見聞と実戦経験をする多彩な場を数こなしてこそ、競合優位だけを求める顧客大名の要請に応じることができた筈だ。



「目標を正確に攻撃するために、火薬の調合法・様々な素材と形態からなる玉の製作、それに加えて大砲の場合は、仰角・玉行(弾道)の計算などの知識と経験が必要とされた。それに応えるように、稲富一夢(いなどめいちむ)のような砲術師たちが廻国し(筆者注:国内を移動し)、鉄砲の使用法や玉薬の調合法をはじめとする様々な知識と技術を伝えたのであった」

「なお火器による戦闘が、玉傷の治療、すなわち外科医術の発展を促したことも忘れてはならない。毒性をもった鉛玉が体内に入った場合、従来の医術では対応が困難だった。たとえば『雑兵物語』からは、雑兵達が『外科の薬箱』を持参していたことをはじめ、種々の治療法が試みられていたことがわかる。
 また鉄砲の伝来と時を経ずに、南蛮流外科医術が受容されたとする指摘も重要である」

砲術師をITコンサルに置き換えれば、新しいITの導入をコンサルするだけでなく、セキュリティやそれが破られた際のハッキング対策やウイルス対策も講じる必要が出てくる。
新たな知識分野はその関連ニーズを拡張していく、そしてその関連ニーズのすべてを満たさないと全体として意味をなさない、ということである。
その拡張ステップをいま少し精緻に眺めてみよう。


「戦国・織豊時代における鉄砲の受容には、およそ次のような三段階があったと考える。

 まずは、高価な貴重品で狩猟や限定的な戦闘にしか使用されず、贈答品だった段階である。
 たとえば、自らも砲術を修行し鍛冶に鉄砲を製作させていたことで知られる足利義輝は、大友氏などの戦国大名から南蛮鉄砲の献上を受けて収集したり、天文二十一年(1552)には大阪本願寺に玉薬の原料となる焔硝を所望している」

この第一段階の知識創造は、「鉄砲というハードのプロトタイプづくり」と言えよう。
この段階では、鉄砲製作をする定住民と定住社会が鍵となっている。

「続いて、鉄砲隊の成立に伴い、戦術に変化がみられる段階である。やがて鉄砲は大量生産され、鉄砲商人が介在し、諸国の領主層が積極的に購入するようになる。これは廻国する砲術師が、鉄砲の使用法を伝えたことと密接に関係する。

 織田信長は、鉄砲隊を効果的に野戦や攻城戦に利用したが、天正六年には焙烙や鉄砲による攻撃に対応する、鉄板張りで艦載砲を装備した甲鉄船を建造させることで、海戦にも大きな変化をもたらした。火器の軍隊への本格的な導入によって、信長の軍事力は飛躍的に向上したのである」

この第二段階の知識創造は、「鉄砲の運用というソフトのソリューション化」と言えよう。
この段階では、鉄砲の運用を多様に展開し経験知を蓄積する転戦する転住民と転住社会、つまりは臨戦体制と戦場が鍵となっている。

「最終段階として、大砲戦が本格化した徳川家康による国家統一が完成した段階となる。
 関ヶ原の戦い以降、それまでの鉄砲中心から大砲を本格的に活用する戦闘へと変化する。注目すべきは、家康の大砲収集である。彼は、国友鉄砲鍛冶を編成して大砲を鋳造させたばかりか、イギリスやオランダの商館を通して優秀な大型火器を購入し、大阪の陣に投入して戦果を上げた」

この第三段階の知識創造は、「大砲のハード+ソフト+ソリューションの三位一体化による市場占有」と言えよう。
大阪城を大砲によって粉砕した家康の勝利は、徳川幕府の権力を確固たるものとする、突出した軍事力についての象徴性を伴った。
この段階では、最先端の大砲のハードとソフトとソリューションをその担い手たちごと囲い込むことが鍵となった。家康は幕藩体制や天領において、それまで転戦する転住民であった彼らを定住民化し、交易する転住民である外国人商人との関係を独占した。
社会的な課題が、
戦国大名たちによる知識創造の個別具体的な競合(「信長志向」)から、
徳川幕府による独占的な知識創造体制の組織と管理(「家康志向」)になった
と言える。


専門分野が多様化し連携化し、次から次に新しい次元の知識創造領域が生まれてくる。
すると、それを担う人材も多様化し相互に連携化する。
これが最終形に行き着くまでは、知識的にも人材的にも合従連衡があり、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」が、身分の垣根も越えて縦横無尽に活性化した。
しかし、最終形に行き着いて、かつそれを体現できるのが徳川家康一人となる市場占有状態となると、他にさせない、他ではできないという状況の確保と維持が目的となる。たとえば、幕府が所有する鉄砲や大砲が国内的に最先端であればいい訳で、必ずしも国際的に最先端である必要はないということになる。そのような状況は、黒船が来航して維新に向かう幕末まで続いた。
幕府においては、各藩と同様に、家臣の誰が何を担当するか世襲で決まっていて、その御用を請ける出入り業者も決まっている。この集団を身内で固定する「家康志向」において行き着いた最終形が維持された。


「信長志向」から「家康志向」への知識創造体制の転換は、武器に限った話ではなかった。

信長の<重商主義〜移動民重視>から
家康の<農本主義〜定住民重視>への
社会全体の体制枠組み、組織や集団を貫く社会原理の転換だったことは論を俟たない。



(4)
http://conceptos.exblog.jp/25776359/
につづく。
by cpt-opensource | 2016-09-02 22:43 | 発想を促進する集団志向論


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