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日本人には当たり前のことに外国人が認める特異性(2)

「日本人の知らない日本語3」蛇蔵&海野凪子著 メディアファクトリー刊 発



「日本人には当たり前のことに外国人が認める特異性(1)」
 http://conceptos.exblog.jp/25061205/
 からのつづき。



文字や言葉の創出について


「漢字は中国から伝わったものですが、日本で作られた漢字『国字(和字)』もあります。
 奈良時代からすでに使用されていたとみられ、現存する最古の漢和辞典『新撰字鏡』(平安時代初期)には約四百の国字が載っているそうです。
 常用漢字表にある国字は全部で八字(働匁塀峠搾枠畑込)ですが、魚の名前や花の名前などにもたくさんの国字が使われていますし、私のペンネームに使っている『凪』も国字です。

 古くから使われている国字としては『峠・辻・などがあり、また江戸時代後期に作られた『膵(スイ)・腺(セン)』などは中国で使われることもあります」

「中国人学習者にとって国字はとてもおもしろいものらしく、時々私に問題をだしてきたりします。
 『凩(こがらし)』『俤(おもかげ)』などはよく見かけるのですぐに答えられますが、『呎(フィート)』『糎(センチメートル)』など近代文学の小説に出てきそうなものだと慌ててしまいます」

「授業の後 学生に質問されました
 『人々』などに使う『々』って これひとつでは 何と読むんですか?
 
 読み方はありません
 読み方のない漢字が?

 正式には漢字でもありません 『々』はおどり字と言って 繰り返しを表す記号です」

「読み方がわからないと言えば、『一ヶ月』『一ヶ』などに使われる”ヶ”も不思議です
 カタカナのケなのになぜ『ケ』と読まずに『か』や『こ』?

 あれはカタカナではなく 漢字の略字なんです
 一箇月→一ヶ月
 一个→一ヶ

 『个』は中国では数える時につかいます!!

 その漢字が日本に来た時、『一个』?なんだこりゃ 
 『ケ』か?ナナメになったケだな?
 ”一個”より書くのも楽でいいな
 このようにカタカナとの混合が広まったといわれています

 『々』は漢字
 『ケ』はカタカナ
 だと思っていました・・・・」

『弗』が漢字だと知った時の衝撃を思い出します

 『弗』は日本にドルが入ってきた頃
  ”$マークに似ている”という理由だけで当て字に採用された漢字ですから

 そんな理由でいいなら温泉マークも漢字に入れてあげたらと思います
 賛成の人
 はい

 いやここで決めても」
 
中国人が面白がるのは、漢字を創り出すという行為とその成果だろう。

ちょうど中華料理を古来、定番料理として味わってきた中国人が、ラーメンなどの日本化した新型中華料理を面白がったり味わったりすることと重なる。

中国人にとって漢字は伝統的に定まったものであり、それを前提にいかに書くかという字体が工夫されうまく書くことが競われた。中華料理のメニューも地方によって伝統的な定番メニューが固定されていてそれをうまく作ることが競われた。しかし、日本人は勝手に中華料理の拉麺を日本型ラーメンに作り替えたように、漢字の読みを日本型にし、さらに新しい漢字まで作ってしまった。

本歌をそのまま歌うのではなく、本歌取りした新たな歌につくりかえる、そんな発想思考パターンは、日本人には古来当たり前である。
フランスやオランダのクロケットを模倣して西洋のフライとは異なるPANKOを用いたコロッケを生み出した。コロッケとトンカツとカレーライスが「大正の三大洋食」と言われる。フランス料理のオムレツにチキンライスを入れたオムライスを作ってしまう。イタリア料理のスパゲッティをトマトソースであえたナポリタンを作ってしまう。日本食の食材のたらこを使ってたらこスパゲッティを作ってしまう。名古屋名物あんかけうどんをヒントにあんかけスパゲッティを作ってしまう。多様化は文字通り限りが無い。
日本のラーメンも、最初は中国の拉麺の模倣から始まるが、すぐに地方地方でスープと麺にアレンジが加わり、やがて店系列によってトッピングも多様化しつけ麺が生まれたりもした。

日本人は「型」を踏まえるが「型」にはまらず「型」自体を開発していく。
そこが中国人だけでなくフランス人やイタリア人など外国人からユニークと感じられている。

中国で中国人経営の店の「日式拉麺」と称する定番メニューを見ると、そのことが良く分かる。
彼らにとっての「日本型」という認識の有り様が分かる。
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日本人が見たことがないものが並んでいる。もちろん中国の伝統的な「拉麺」でもない。それをベースに日本的な「型破り」を現地人の好みに合わせて展開している。
この現象とまったく同じことが、世界各国の現地人経営の店の「寿司」や「日本食」で起こっている。
日本人はそれを見て、あんなのは寿司じゃない、あんなのは日本食ではない、と言う。
大きなお世話なのである。
かつてフランス料理やイタリア料理が日本で現地化してまったく新しい「洋食」になったのと同じことをして、日本食をヒントに現地人が美味しく食べるものを現地人が工夫しているだけの話なのである。
「本歌取り」の「型破り」を彼らもやっているだけだ。


「和製英語」も『国字』を作り出したのと同じ発想思考パターンの成果と言える。
たとえば、night gameのことを「ナイター」と言うが、double header=「ダブルヘッダー」と韻を踏んだ命名だろうか。
「ナイトゲーム中継」「ナイトゲーム見ながらビール」というと語感が締まらないが「ナイター中継」「ナイター見ながらビール」というと七五調的に座りがいい感じがしないでもない。そういう慣用的な言葉遣いのスッキリ感があると新型造語は定着していくようだ。
アメリカ人は、そんなカタカナ英語は英語じゃない、と言うだろう。私たちは、だからどうした、そんなことは分かっている、と返すだろう。
海外の現地人経営の日本食店のメニューについて日本人が、そんなのは日本食じゃない、と言うのはそれと同じことなのである。



日本人庶民のちょっとした日常的なデザイン志向について


「中国人が日本で初めて見たもの お弁当
 芸術作品みたい」

と周女史が感激したのは、タコのソーセージや兎のリンゴの入ったお母さんが子供につくったふつうの弁当だ。
その発展形である「キャラ弁」に至っては感激を越えて驚愕するのではなかろうか。
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日本人が面白いのは、そういう庶民文化が発生するとすぐにそのノウハウ本が出版されたりそれ用の道具が商品化されることだ。ソーセージをいろんな動物などにカットするカッターなどが工夫されている。そして、そうした創造活動の多くにおいて、そもそもはアマチュアのオタクが、その道のプロとなってブームを先導するようになっていて、最終的にファンの裾野からマニアを経てプロを頂点とする一つのピラミッド型の市場を形成している。つまり、新たに創出された「型」がブーム化して定着する社会化プロセスである。

そういう社会全体としての生活文化の創造ダイナミズムはいろんな物事で起こってきた。
たとえば、ケータイその他の身の回りの物をデコレーションするデコ◯◯。
それのネイル版のデコネイル。ネイルサロンはアメリカ由来だが、それがデコ化してデコネイルが普及したのは日本化と言える。
ネイルサロン向けにネイルシールが開発され、スマートフォンにさわると光る「ルミデコネイル」なるものまで登場した。キャラクターと連携する「キティデコネイル」などはまだおじさんでも理解できるもので、なんでここまでするのかという◯◯ネイルの文字通り百花繚乱状態になっている。
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デコネイルにしろ、ラーメンにしろ、スパゲッティにしろ、日本人は民族として「◯◯尽くし」をしきらなければ気が済まない「尽くし志向」を集合的無意識の内に共有しているのではないか、と思えてくる。
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そのように日本人の一般庶民の創造性、ないしは庶民社会の創造力を捉えると、「寝相アート」もその典型として上げることができる。
「寝相アート」とは、赤ちゃんの寝相の形を生かして演出したおもしろ写真のことで、書籍やテレビで話題となった。
私が着目したのは、赤ちゃんの親御さんが「寝相アート」をネット上にアップして人に見てもらって喜んでいることだ。アップされた「寝相アート」を見てはまだ発表されていない演出を考えもするのだろう。結果、掲載サイトはすぐに新たな「型」の百花繚乱状態になる。
私はこれをみてテレビの人気恒例番組「欽ちゃん(&香取慎吾)の全日本仮装大賞」を思い出した。
ともに、表現の大枠が設定されていてあとは自由にやってくれ、という自由参加発表型で、題材は「本歌取り」で表現は「型破り」である。特に後者は当初からいわゆる仮装の「型」を逸脱していた。



「寝相アート」や「全日本仮装大賞」のような自由参加発表型の情報受発信は「よさこい」などのイベントにも見られる。
日本人は民族として「盆踊り」のようなパフォーマンスを人に見せて見られて喜ぶ「表現鑑賞一体型の祝祭志向」を集合的無意識の内に共有していて、それをベースとして「本歌取り」の「型破り」の競い合いが乗っかっていると解釈できる。

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デコネイルやラーメンやスパゲッティに見てとれる「尽くし志向」は、
お洒落をして闊歩する街や新作ラーメンを打ち出すラーメン業界を「表現鑑賞一体型の祝祭志向」の舞台とした
「本歌取り」の「型破り」の競い合いの積み重ねの成果と位置づけられる。



言葉の性差や役割語について


「も〜!!だいたい日本語は性別で言葉が違い過ぎ!!

 確かに日本語ほど性差のある言葉は世界でも珍しいといわれているけど」

「日本語学校では基本的に男女差がない言葉を教えます。
 ただ、いわゆる『男言葉』『女言葉』は教科書にも出てくるし、普段から耳にしていると思うので、自分はあまり使わなくても会話を聞いたり読んだりすれば『今、女性が話しているんだな』『これは男性のセリフだ』と判断できる学習者が多いと思います(もちろん自分でも使える学生はいます)。
 
 しかし最近は『〜だわ』『〜のよ』という語尾が教科書に出てくると、学生から『こんな言葉を使っている女の人はほとんどいません』と言われます。(中略)

 日本語が変わっていくことを『日本語の乱れ』として嘆く人も多いのですが、社会が変われば言葉が変わるのも当然なのかもしれないと思います。今の変化も数十年後に見た時『このようにして言葉の意味が変わったのか』とか『この頃はこういう言い方をしていたんだな』と思えるのではないでしょうか」

「男言葉」「女言葉」があること、そして特定の階層に属することを示す独特な言葉遣いがあること(たとえばヤクザや商人が言う「手前」「手前ども」)などは日本語独特だ。
そしてその変遷から、男女関係の変化や、階層や階層関係の変化を知ることができる。

総じて言えることは、言葉遣いによって、話者が属する<世間>と話者と相手との関係性を表現しているということだと思う。
たとえば壷振りお龍は、「女言葉」と「ヤクザ言葉」を使うことで、女×博徒の<世間>に属していることを表現する。「◯◯親分とお見受けします。手前、・・・」と言うことで、流れ者の身として相手に謙(へりくだ)っていることを表現し、尊敬語や謙譲語との兼ね合いも出てくる。

日本語はそういうことを常に表現し続けているということは、日本人は自分の言いたい内容である「命題」そのものよりも、自分と話す相手との「人間関係の文脈」に常にこだわっている、ということなのだろう。
表現する「人間関係の文脈」が歓迎される場合、表現する「命題」も受け入れられやすい。
あるいは表現する「人間関係の文脈」が歓迎されない場合、表現する「命題」そのものにたとえ賛成でも受け入れてもらえない。日本人にとってはそういうことが起こりやすいのかも知れない。
たとえば、「根回し」というコミュニケーション手法が成熟したのも、先に「人間関係の文脈」の調整をする習慣として有効性があったからだろう。
また、たとえ正論でも「あいつにだけは言われたくない」「あいつの言うことは聞くくらいなら会社をやめる」と当たり前のように平気で言う人がいるが、了見の狭さが社会的に容認されているの観がある。


「マンガの中に出てくるキャラクターの話し方
 私は中国人アル これ食べるヨロシ
 ワシは博士じゃ なんでも知っておる

 そんな話し方している人 実際に見たことない
 と思ったことはありませんか?

 このように特定のキャラクターに結びついた特徴ある言葉づかいを
 私(金水敏阪大教授)は『役割語』と呼んでいます

 なぜ中国人は『〜アル』と話すのか?
 実際にそう話していた人がいたからです
 江戸末期〜明治 外国人が突然増えた時代
 『とりあえず通じればいい』カンタン日本語を考えてみた!!

 〜です います あります → アリマス
 〜ですか? いますか? ありますか? → アリマスカ?
 もうこれでいいよ!!
 このように生まれた『外国人のための日本語』のひとつが
 中国人の言葉づかいのイメージとして伝わっていったようです
 実際は中国人に限らず使われていたと思われます」

「外国人のための日本語」なるものを自ら創出してしまった日本人はとてもユニークだ。
差別したり排除せず歓迎する余所者に対しては日本人はとても寛容であり、その寛容さが外国人に対するこうした発想を生んでいるケースではないか。

よく「世界共通語としての英語」を身につけようという人は多い。
これに対して、「外国人のための日本語」は、英語ネイティブである英米人が「非英語国民のための英語」を創ろうという発想である。
「世界共通語としての英語」とは言うものの、実際の国際的な公の場では英語のネイティブスピーカーがそれぞれの母語をいつも通りに話していて、非英語国民がそれぞれに学んだ英語を話している。
もし、常用漢字のように、常用英語の単語や慣用句を限定しおいて、それに場の話題に応じた専門用語を加えて英語ネイティブも非英語国民もそれだけで済ませられる話はそれで済ます、という約束にすれば、それこそが合理的に標準化された「世界共通語としての英語」になる。
差別したり排除せず歓迎する余所者への寛容性、それを土台にした「外国人のための日本語」の発想を推し進めていくとそういう発想になると思うのだが、いかがだろうか。


「なぜ博士は『〜じゃ』と話すのか?(中略)
 博士語は部分的じゃが 今の関西弁に似とるんじゃよ

 ではなぜ 『関西風に話す人』=『博士・偉い人』なのでしょうか?
 話は江戸初期にさかのぼります 
 今までずっと文化の中心は関西だった(中略)
 伝統を大切にする人=多くは年寄り・知識人=関西風に話す
 という時代が確かにあり 歌舞伎のセリフに生かされ
 役割語として生き残っているのです」

ということなのじゃ。

この『◯◯風に話す人』=『その道の専門家・権威』的な言葉遣いは、大なり小なり古今東西あったのだと思う。しかし、役割語や外来語が豊富な日本語では、また属する<世間>や自分と話す相手との「人間関係の文脈」にこだわる日本人の対話においては特に著しいのではないかと思う。

たとえば、
マーケティング関係やIT関係のエキスパートはいきおい専門用語の外来語が多くなる。
弁護士や検事や警察官はいきおい法律用語の漢語が多くなる。
ファッション関係やエンターテイメント関係のエキスパートはいきおい話題の外来語や新造語が多くなる。
それだけなら日本に限ったことではない。
しかし日本の場合、
これに「業界言葉」の使用が加わり、その多用されるものを一般人も使うようになり「一般的に使われる普通の言葉」になる。
特にテレビが普及した後は各種の番組で多用されたり、憧れの登場人物によって使用されたりすることで頻繁化や俊敏化や短命化という形で加速化した。

その中には、従来日本語で表現してきたことを意味するカタカナ英語が定着するケースが顕著にある。
バブル期前後から後のものとしては、メリット(利点)、デメリット(不利な点)、コラボする(恊働する)、リンクする(連携する)、などである。
もともと漢語が中国由来の外来語であって古来、同様のことをやってきた日本である。社会全体としては支障はない。支障があるのは、漢語ばかりを使ってきて高齢化した世代である。
ひょっとすると日本では、このような多用する言葉の交代が、世代交代を促す社会的な装置になってきたのかも知れない。

それはショートレンジでもっと微妙な形で日常的に繰り返されてもいる。

バブル前夜からバブル崩壊直後までよく使われた「ナウい」は、いわゆる空白の20年の間に死語になった。それでも当たり前のように「ナウい」を使う人は周囲から陳腐化した存在とみなされた。
おそらく、「ナウい」には、新しいことを何でもかんでも「イケイケどんどん」ですることが良いとされたバブル的なニュアンスがあり、時代の空気にそぐわなくなったということではないか。
バブル期の女子大生ブームの後、女子高生ブームや渋谷のギャルブームがくる。すると「チョー」や「マジ」や「チョベリバ(チョー・ベリ・グッドの略)」という言葉が流行った。その後「チョー」と「マジ」は一般社会に定着して大人も使うようになり、「チョベリバ」は死語になり使う大人は軽薄と看做されるようになった。
21世紀の00年代には「マジ」の意味に隣接する「ガチ」が登場し10年代の定着する傾向にある。「マジ」が精神的な意味合いに重点があり切迫感はないのに対して、「ガチ」は身体的なニュアンスを含み切迫感を持っている。
おそらく、空白の20年に生まれ成長したいわゆるロストジェネレーションが、サバイバルして行くには「マジ」なのは当たり前で「ガチ」でなければ苦難を乗り越えられない、そんな時代の空気を反映しているのではないか。
たとえば、彼らが「ガチ」を使うところで「マジ」を使う者がいると、彼らは、分かってないなあ、とか、悠長な立ち位置なんだな、と感じるのではないか。

日本語を話すという行為「スピーチ・アクト」において、
話している内容=「命題」ではなくて、どのような言葉遣いで「命題」を語るかで、
話者が属する<世間>や「人間関係の文脈」での立ち位置や役割が常に表現されている、
ということに着目してほしい。

立ち位置には、流行に遅れていないことなども含まれ、役割には、その場での話題の進行役なども含まれる。
こうしたことは私たち日本人にとっては当たり前のことだが、外国人からは特異性が認められる。
本質的には、日本語の「スピーチ・アクト」の「話し手の視点」が以下のように英語のそれと異なることが関係している。

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「日本人には当たり前のことに外国人が認める特異性(3:最終回) 」
 http://conceptos.exblog.jp/25064323/
 につづく。
by cpt-opensource | 2016-03-22 04:00 | 発想を個性化する日本語論


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