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日本人の情緒性の土台は大和言葉のメカニズム(4/5)

「日本語の力」中西進著/集英社文庫 発



「日本人の情緒性の土台は大和言葉のメカニズム(3/5) 」
 http://conceptos.exblog.jp/25053007/
 からつづく*


外来語の三つの原型


「日本が最初の外来語を受け取った時期はいつか、これは古く、弥生時代であろうと考えます。弥生時代というのは、(中略)紀元前300年ぐらいから紀元後350年ぐらいのあいだであります。そのころに、日本の第一の外来語がやってきたとわたしは考えます。
 そう考える理由でありますけれども、外来語が成り立つためには、すでに一定のできあがった言語体系がなければなりません。その前提の上で初めて、外国からやってきた言語というものの問題が生じます。(中略)
 つまり縄文時代、紀元前の一万年ころにすでに日本語が存在していた。そしてその縄文語を母体として、以後のさまざまな変化を経て現在の日本語ができ上がったと考えるということが、すなわち弥生時代が外来語の第一波であるという主張であります」

著者は以上のように縄文語を母体として弥生時代に外来語の受け入れが進んだことを前置きした上で、以下のように外来語の三つの原型を解説していきます。

「第一に文明語
 文明、シビライゼーションですね、(中略)日本が急激に高度な文明を受け入れる時代だから、とうぜんです。(中略)
 中国語が日本語化したもので、名詞では群(くに)、殿(との)、君(きみ)、絹(きぬ・衣)といった制度や文化にわたる『文明語』です」
「これらはすべて中国の漢字音を日本ふうに発音して、受け入れたものですから外国語そのままの字音語です。しかも語頭の発音からみると、韓国経由のものであることがわかります」
「こういう文明語と呼ばれるものが、弥生〜飛鳥時代に日本語化しました」
飛鳥時代は、古墳時代の終期と重なるが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけての、推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が花開いた時代です。この時代に、倭は『日本』と改称したとされ、大陸的な国づくりがいちおうの区切りをつけた時代と言えましょう。

「第二に認識語があります。
 リコグニションする、リコグナイゼーション、認識をより緻密にする、細かく高度にする単語。これがやはり外来語の第一波として入ってきたのではないかと考えます。リコグナイズは(中略)『再び知る』『そのものを以前からの知識や経験からアイデンティファイする』という説明があります。(中略)
 動詞では、築(つく)、作(つくル)、滲・染(しむ・そむ)、占(しむ)、析(さく)、剥ぐ(はぐ)、香(かぐ)、啄(つつク)、舞(まフ)、死(しヌ)などを拾うことができます。これらは漢字音そのままを動詞化して使うものと、音に動詞化の語尾をつけたものとがあります」

「『しヌ』という単語が弥生時代に入ってきた中国語であると考えるときに、それでは同じ現象を以前の日本人はどう考えていたのかということになりますが、『たゆ』、命が絶えるという『たゆ』という単語とか、あるいは『かる』、枯れる、離れるという『かる』ということばがありますが、そういう単語であらわしていたのではないか。魂が肉体から去っていくことが『かる』であります。植物が枯れていくことが『かる』であります。そういう『かる』ということばでいっていたものに対して、『しヌ』という新しい単語を受け入れたのではないか」
ともすると死さえも機械論的に扱われる現代の高齢化社会に生きる私たちにとっては、温故知新、「かる」という大和言葉の方が『そのものを以前からの知識や経験からアイデンティファイする』認識語になると思えます。

ここで著者は、認知表現のパターン論においてとても重大な指摘をしています。


「さらにもう一つつぎのような認識語の導入があります。
 『万葉集』の話ではありますけれども、白い雪を『しらゆき』と申します。この白雪(しらゆき)ということばは、従来日本になかったことばだという説がございます。『しら』ということばはむかしからある。『ゆき』ということばもむかしからある。しかしそれを合わせて『しらゆき』ということばで一つの概念を明確化する、あるいは枠組みをするということがあります」
初霜(はつしも)や春霞(はるがすみ)も同じだそうです。

「そういったような、中国語に根拠を置く新しい日本語、これをどんどん作り上げていった。これがどうやらおびただしく八世紀に行われて、それが『万葉集』という日本の最初のアンソロジーを作る大きな力になっているという考え方ができます」
二つの概念を複合して新しい一つの概念を創造するということが、この時代の日本人が中国語の漢字の組み合わせに触発されて始めた、ということは一大事でした。
まず、私たちは万葉集にある大和言葉は漢字(万葉仮名)で書かれてはいるが読みは日本オリジナルの和語だとざっくり考えている訳ですが、じつは中国語を加工したり組み合わせた新造の和語だったということはあまり知られていないのではないでしょうか。
そして、脳科学で「ミルクコーヒーのクオリアは、ミルクのクオリアとコーヒーのクオリアとは異なる新しいクオリアとして生まれる」と解説されるように、複合概念は古代日本人の新しい語感と意味の質感とを加速度的に増大した筈です。ひょっとすると万葉集は、上は天皇から下は乞食までの和歌が集められている訳ですが、日本各地のすべての階層で新造の和語が生まれていてその表現力の際立つ用例を集大成したものでもあったのかも知れません。

「もう一つ、リコグナイゼーションの三番目の例として申しますと外来語を受け入れるときに、自国語と外来語、これを二つ重ねて受け入れるということがございます」
これは前項(3/5)で触れました「ひらさか」「わたつみ」です。

「外来語の第三の受け入れ方として、新しくことばを作りだすことがありました。そのときには、本来のことばと違った意味で単語を作り上げることがございます。自国化語があります。
 たとえば仏教の出家(しゅっけ)ということばがございます。これはガンダーラの仏教をもとにした、古代の日本の文明が受け入れたことばでありますけれども、この出家(しゅっけ)ということばを古代日本人は『いえで』ということばで表現しております。(中略)家を旅の反対概念として考える当時の日本人の中で、『いえで』ということばはおそらくは別の日本語を意味していた、すでにあったことばではないかと思います。
 それを出家(しゅっけ)にあてたことにおいて、これはもう明らかに違った概念、ずれた概念が起こってくるのだろうと思います」
「世間(よのなか)」も、漢訳仏典を通して受け入れた時間と空間をあらわす「世間」に、時間を表す「よ」と空間を表す「なか」をあわせて「よのなか」としたのです。
こうした外来語の方の意味を担うべく自国語の方を作りかえてしまう、というのは考えてみるととても自由自在でとらわれのない発想です。外来語と日本語の複合以上に日本人の融通性を示すものではないでしょうか。

たとえば、現代の日本で使われる「リストラ」という言葉は、本来リストラクション=再編を意味するものでしたが、実際には人減らし=首切りの意味で使われています。これなどは、リストラクションをいったんリストラというカタカナ英語として日本語化した上で、そのソフトなニュアンスを借りて実際的意味をすり替えています。
これは、自国化語を装った日本語の言い換えでありますが、出家のことを「いえで」と表現することで仏教習慣を受け入れやすくした言葉づくりと、人減らしや首切りを社会的に受け入れられやすい雰囲気を醸成する言葉づくりには、同じメカニズムが働いています。
著者はそういう観点から、自国化語の例として、「ナイター」「カレーライス」「月舟(げっしゅう)」などもともと英語や中国語にない和製外国語もあげています。いわば「本歌があると装った本歌取り」の発想とでも言えましょう。
(現代でも「アメリカ出羽守」と揶揄される人々は、自分に都合のいいアメリカ一般論を用います。しかし現実にはそれはアメリカでも特定の部分や一つの側面に過ぎなかったりする。「本歌があると装った本歌取り」とはこれに相当するでしょう。)

著者は、第一波の後、南蛮文化、江戸時代の長崎経由のオランダ文化、近代の欧米文化の波があり、計4つの外来語の波があったとした上で、その受容のあり方はすべて文明語、認識語、自国化語の3形式であると主張します。
「祖型がもう弥生時代から八世紀にかけての『万葉集』の中で行われているのであります。それをくり返して、近代に到るまで日本人は外来語の受容を行ってきているのではないかと考えます」

俳諧が「詞付」「心付」「匂付」という展開をしたことについては、前項(2/5)で触れました。俳諧の連句のつながりが「言葉の縁」に求めていたのが、言葉で表現しうる「意味」に求められ、最後に言葉で表現しきれない「情緒イメージ」に求められていく。
私には、これと文明語、認識語、自国化語の3形式が対応しているようにも思えます。

著者はこう力説します。
「わたしはこういう影響関係というものの中で、従来は影響を与えるほうに主眼がありすぎたのではないかと、いつも考えております。世の中では、文明の影響、必ず与えるほうのことばかりを問題にします」
アメリカ型のグローバリゼーションの当然視しかり、高度情報化イコールIT化の短絡論しかり、です。
「そうではなくて、受け取るほうに力点があるのです。受け取らなければ、文明の影響はあり得ないのです。いかに高度な文明があろうとも、それをアクセプトすること、受容です。影響はは、受容のほうがむしろ大事だと考えております」
著者は、文明語の導入において、日本文明はより高い文明に尊敬のまなざしを謙虚にむけつつそれを積極的に吸収した、しかし一方で認識語をより精緻にすることで、その文明の文化としての意味や感覚を深く認識してクリエイティブな独自性をもって受容した、さらにはどこにも実在しない言葉や物事を創造し自国化語さえ果たした、と主張しているようです。

温故知新、今日の日本のことを振り返ると、
戦後目指してきた西側先進国へのキャッチアップの達成とともに沸き返ったジャパン・アズ・ナンバーワンそしてバブル崩壊の後、空白の10年を経た21世紀初頭の現代日本は、
またぞろ新たな文明語を追いかけることに必死で、
それをクリエイティブな独自性をもって受容する認識語の精緻化にまでは気が回っていない

そう捉えることができます。
現代の社会や世界についての認識語の精緻化がすすむとそれを踏まえた認識力や洞察力がつく、
すると日本ならでは有意義な言葉や物事を表現する自国化語が生まれてきて、
そのような新造の日本語の共有が社会的なインフラになって<日本発>の集団独創が多発してくる、
と考えられます。


万葉集を文字で書くということ


「口承のやまとことばを中心として作られたものが、万葉の和歌です。それを文字(漢字)で書こうとしたわけです」
と口火をきる著者は、二つの困難を指摘します。

「まず一つは、口承しているあいだは、いちばん重要なのは耳で聴くという『聴覚性』です。ところが書記言語というのは『視覚性』が中心になります。これはもう基本的に違うのです。そういう違いを飛び越えようとした、それが『万葉集』の遭遇した一つの難関だった」

「もう一つは、やまとことばの歌を漢語で表現しようとしたわけです。そこに大きな困難がありました。助詞、助動詞が表記できないということがありました。
 漢語は『孤立語』ですから、名詞や動詞の語幹のようなものしか書けないのです。
 およそ『膠着語』であるやまとことばとは違った言語体系をもってきて、それで書こうとしたのですからここに二番目の大きな困難があった。

 しかし、その困難、矛盾に、万葉びとはあえて挑戦しようとしました。矛盾をむしろ徴発として、もう一つのことばを作っていったのです。それが『万葉集』を『書く』という行為だった」

著者はこのように本書の最後を締めくくっています。
「しかし、そうした徴発の結果、古代日本人が何を獲得したかというと、文字を使ってみたときの自由自在なイマジネーションの発見だった」
それは、やまとことばを土台とした日本人の発想思考の認知表現パターンの原点となっていると思います。




以下、著者が「想像力を刺激されること夥しい」とする万葉集の文字表記について、その日本型集団独創において示唆的な解説内容を具体的に検討していきたいと思います。

現在、世界にさまざまな言語があり、その中で文字をもつのは20%ほどで、ゆえに古代において文字をもっていたというのは大変なことだそうです。
その証拠として著者は、家庭内の日常生活で文字は使わないだろう、使う時は危機的状況だとおっしゃいます。

「『文字』は政治支配の道具だという考え方もあります。なぜに中国に、秦に始まる大帝国ができたかというと、それは漢字をもっていたからだと---これは司馬遼太郎さんがいっておられましたが、そのとおりだと思います。人間を支配したり社会を秩序化したりする道具、それが『文字』です」
ということは、日本における国づくり=支配体制づくりと、日本語の形成は一体のものでした。
本論では万葉集の和歌を中心に検討してきましたが、日本型の政治宗教のパラダイムが前提としてあり、その中で日本型の文学が開花したということを忘れてはなりません。
母音主義と助詞助動詞の堅持は、日本型の政治宗教パラダイムであるアニミズムの温存を図ったものと考えられます。
具体的には、歌うことの儀礼を尊守したのでしょう。
歌うことによる政治宗教が詔であり祝詞であり、歌うことによる文学が和歌です。エンターテイメントとしては後者の方が面白いですが、文字の本領は前者の国づくりにおいて発揮されたと言えます。

アニミズム的色彩を温存した政治宗教がそれまでの「歌うこと」しかなかった段階と、「書くこと」を追加した段階とで何が変ったのか。
私は、それは単に儒教と官僚制による中国化ではなかったのではないか、と思えてなりません。

私は、
原理的には男でも女言葉を書いたり書かせることができる、
女でも男言葉を書いたり書かせることができるようになった

ということに注目します。
歌うことも書くことも代行できますが、歌うことの代行は一目で、あるいは一聞きで声の主が男か女か分かってしまう。しかし、書くことの代行は声の主をその場で見ないほとんどの場合分からりません。
そこで書面にサインをしたり印を押すことになる。ここまでなら中国でもあったことです。
しかし、歌に固執した日本の場合、男言葉と女言葉がある、という特徴が今日に至るまである訳です。
実際に平仮名が女手片仮名が男手と呼ばれました。

性を偽って書くこと書かせることが原理的に可能である、というのは日本語文字の場合においてのみ有意味でした。
それが宗教的にあるいは政治的にどのような有意義だったかというと、文字記録によってシャーマンの両性具有性をアレンジして高度化蓄積していける、ということだと思うのです。

このことが実際に朝廷史にどのような影響を及ぼしたかは、いずれ仔細に検討してみたいと思っています。
私は、平安時代のいわゆる国風化が言語においては平安文学が象徴するように「女性化」だったことを考えると、前段の奈良時代に「両性具有化」があったのではないか、と思うのです。
ただし、主に助詞や助動詞で識別される「男言葉」と「女言葉」が、<部族人的な心性>が一貫した縄文語の段階からあったのか、それとも<部族人的な心性>をベースとして温存して形成された<社会人的な心性>において大和言葉の段階で新造されたのか、は慎重な検討を要するところです。

男女機会均等の政策が施行される現代の日本、たとえばマネジメントの世界で男女を分け隔てするのはタブーとなっています。
しかし、マーケティングの世界ではお客様自体が自分が女であること男であることを尊重する以上、こちらも尊重せざるを得ません。その際、日本語が現代においても男言葉と女言葉を活用していることは、私たちは当たり前とさえ思わず無意識に受け流していますが、じつはマーケティング活動プロセスにおいてとてもユニークかつ貴重なリソースになっているのではないか。
つまり私は、
男言葉と女言葉がある日本語とその文字表現が「マーケティング・コミュニケーションの道具」として卓抜な性能をもっていて、発想思考の方法論としてさらなる活用の余地があるのではないか
と考えるのです。

それは、私が男でありながら女言葉を文字表現することで、あたかも女性が考え話しているように文字表現できる、ということに留まりません。
私が男でありながら女言葉で考えることによって、女性の感受性で物事を感じそれを表現することができる、ということをも含みます。
私はこのように考えるのです。

男言葉と女言葉というのは、ジェンダー軸の+−の両極であって、その真ん中の0地点にニュートラルな中性ないし(シャーマンのような)両性具有性ないし(去勢した宦官のような)無性がある。
そして話し言葉の実際は、両極は男性同士で話す時、女性同士で話す時に集中的に多用されて、男性女性が同席する場や神の前で両性ともに人間として対峙する場や公式の儀礼の場では0地点が集中的に多用される。
ところが、様々な人間関係で人々が話し合う場があり、両極と0地点の間にもそれなりの男言葉と女言葉のバランスされた用いられ方がある。あるいは、同じ言葉でも男言葉的な解釈、女言葉的な解釈がバランスされて用いられる。
たとえば話し言葉としては、「だ」「だろう」は男言葉的として、「です」「でしょう」は場合によっては女言葉的と解釈されますし、場合によってはニュートラルな丁寧語とも解釈されます。

このような事態はどういうことなのか。
日本語ならではの特徴として、特に和語(ひらがな言葉)である擬態語や身体語慣用句において顕著に認められる「身体感覚をともなった情緒性」「情緒性をともなった身体感覚(態度)」を含意し表現する、ということがあります。
人間は無意識的・意識的に母語で物事を感じ考えます。日本人は特に母語日本語中の母語である和語で物事を感じたり考える。そしてその発想思考は和語の特徴を反映して「身体感覚をともなった情緒性」「情緒性をともなった身体感覚(態度)」を起点にする、ということです。
そして、男言葉と女言葉というものは、男女の身体感覚の違いとそれに基づく情緒性の違いを前提している訳で、同じ特徴をもっともシンプルかつストレートに示すものに他なりません。

男言葉と女言葉があり、男でも女でも両方を使い分けたり場に合わせてバランスさせた使い方ができるということは、男性的な「身体感覚をともなった情緒性」「情緒性をともなった身体感覚(態度)」起点の発想思考と、女性的な「身体感覚をともなった情緒性」「情緒性をともなった身体感覚(態度)」起点の発想思考の両方ができる、両者をバランスさせることができる、ということに他なりません。

話が抽象的になったので具体的に例解したいと思います。
たとえば、新聞社の特ダネを追う編集部でたいていは編集長は男性で(男性スタッフが多いということもあり)彼の命令や指示をはじめ職場の話し言葉は男言葉です。ところが例外的に女傑と言われるような女性が編集長を務めることがあります。その際、彼女も男言葉を使い周囲も男言葉で応じる。
このような女性が男言葉を使って男さながら、と差別的に表現されるような成果を上げる場合、彼女は両性具有的であり呪術性を帯びている、ということになります。
たとえば、ファッション雑誌社のハイセンスを競う編集部でたいていは編集長は女性で(女性スタッフが多いということもあり)彼女の命令や指示をはじめ職場の話し言葉は女言葉です。ところが例外的にゲイかゲイではないかと疑われるようなセンスのいい男性が編集長を務めることがあります。その際、彼は女言葉を使うか、男言葉を回避してニュートラルな言葉遣いをするかする。
このような男性が女言葉を使って女みたいな、と差別的に表現されるような成果を上げる場合、彼は両性具有的であり呪術性を帯びている、ということになります。

私たち日本人が着目すべきは、外国においては、こうしたジェンダーレベルの話し言葉の現象が(男性が多い職場か女性が多い職場かということを指し引いても)そもそもの母語の構造から成立しない、ということです。
つまり、両性具有的に呪術性を帯びるという言葉遣いがない、ということです。
ちなみに、英語ではお姉系のゲイの人が好んで使う形容詞などがありますが、それは心理的な性が女性で女性的な言葉使いをしているので、呪術性を帯びる両性具有性とは別問題です。

呪術には、呪いのように誰かを操作する方向のものと、占いのように状況を把握する方向のものがあります。
女性編集長が<男性編集長のように>部下を動かすのは前者、取材先の状況を洞察するのは後者。
男性編集長が<女性編集長のように>部下を動かすのは前者、読者の反応を洞察するのは後者、
ということになります。

マーケティングにも前者の呪術に重なる広告や販売促進と、後者の呪術に重なる市場の調査や商品のモニタリングがあります。
私が後者において着目するのは、フランスの化粧品メーカーが日本人女性を商品モニターにしていることです。理由は、肌についての言葉遣いが日本語が一番きめ細かく充実しているからです。つまりきめ細かく充実した表現力があるということはそれだけ認知力も優れているということなのです。
本記事を改訂している2016年、男性も美肌にこだわるようになり、すでに「美肌男子」なる言葉が流通しています。フランスの化粧品メーカーが「美肌男子」の日本人男性を商品モニターにするのも時間の問題かも知れません。そしてそこまで行くと、彼らの中から女性用化粧品を試す日本人男性モニターも登場してくるのだと思います。
ワインのテイスターや日本酒の聞き酒者に男性女性の区別がないようにです。女性のテイスターが女性好みのワインを見極め、男性の聞き酒者が男性好みの日本酒を見極める。そして、中には異性好みも見極める才能の持ち主もいる訳です。
以上は才能ある人の話ですが、
日本語において男性でも女言葉を使えて、女性でも男言葉が使えるということは、
一般庶民の凡人でも異性の物事の見方ややり方を認知し表現する能力をおしなべて底上げする下駄を履いている、ということなのです。
勿論、その能力を発揮するか封印するか、発揮するとしてどの程度発揮するかは個々の選択で、それこそが日本人の多様性を保証している訳ですが。


話の時空が時代を交錯しているので整理します。
現代でも、リアルに主体に居合わせる場の話し言葉において、男言葉と女言葉の呪術性が展開している、あるいは展開しうるということを確認しました。
大和言葉が体系化した古代では、言葉が先なのか文字が先なのかは判然としませんが、男言葉と男手と呼ばれた仮名文字があり、女言葉と呼ばれたひらがながあった。
神との交信やまつりごと(政治=祝祭)に使われたのは男手で、使われた言葉は両性具有的ないし無性的なニュートラルなものだったと考えられます。それは呪術性を帯びていた、あるいは呪術性を帯びるように意図されたと考えられます。
「男言葉+男手」と「女言葉+女手」の関係は完全な対象性ではなく、前者が後者より優位にあります。それは縄文人以来の<部族人的な心性>が反映したのか、それとも女帝を認めない中国王朝の<社会人的な心性>が影響を及ぼしたのか、そこは定かではありません。
いずれにせよ、大和朝廷の創成期の当初ほど、朝廷の権力は武力の実力行使で示すしかなく、その権威は呪術が人々に見たり聞いたりされる範囲で示されるしかありませんでした。しかし文字の採用とその書面による流布ということによって、制度として流布して安定的に定着する官僚制が構築されていきます。
私個人的には、一般的に律令国家を目指したとか、仏教新興を目指したと言われることは、実質的には朝廷の呪力を拡散して定着するという目的の手段だったのではないかと捉えています。なぜなら、中国の官僚制をその本質である実力主義を捨象して導入していますし、仏教はやがて神道と習合させているからです。


「その日本の文字も、推古天皇の時代---西暦600年の少し前あたりになって初めて使われるようになります。それ以前に日本に文字はなかったのです」

「日本が国家組織をとるのは推古朝からで、聖徳太子が『国家』というものを作り上げます。そのときに大事なのは『文字』だと考える。それから文字がだんだん定着していくことになります。
 日本という国家の誕生とともに、『文字』も日本人の所有物になっていくのです」

「『文字』というものを手に入れて、日本に『万葉集』ができあがります。
 『万葉集』は全部漢字で書いてある。これは日本人の発明ではありません。朝鮮に『吏読(りと)』という表記法があり、それを真似したのが万葉仮名です


万葉集における漢字の使い方


「では、『万葉集』では漢字をどのように使ったのか。(中略)

 大きく三つに分け、さらに
 『表意文字』として『正音』『正訓』『義訓』の三つの使い方があり、
 『表音文字』として『音仮名』『訓仮名』の二つの使い方があり、
 『その他』では『戯書』一つと、
こういう分類になっています」

『正音文字』

 「表意文字」の中の『正音』は、当時のオリジナルな中国音をそのまま発音したものです。今でいうカタカタ英語に当たります。
 <法師><檀越><餓鬼>などで、万葉集に出てくるのは僅か16語で、うち15は仏教用語で、しかもある巻に集中しているとのことです。(残る1語は、関所を意味する<過所(クワソ)>
 このことについて著者はこう解説しています。

「当時、とにかく中国から伝わってきた漢字を一生懸命に使うわけで、『古事記』とか『日本書紀』とかも全部漢字で書いてあります。とくに『日本書紀』などは、いまのような正音文字がいっぱい出てくるのです。<精神>とか<身体>とか、<孝>とか<忠>とか、みんな正音文字でしょう。
 しかし、そういう時代のただ中にありながら『万葉集』はそれを排除しようとしたのです」

「ここで結論が一つ出ているように思うのです。
 つまり『万葉集』というのは、『やまとことば』の歌集だということです。(中略)
 『やまとことば』で心情と事柄を表現しようとした、そういう歌集です。
 一方には『古事記』や『日本書記』があり、これは中国語をそのまま使うことで思想なり感情なりを表現した書物です。
 それとみごとに対立しながら『万葉集』は伝統的な『やまとことば』によって表現しようとしたのです。」

『正訓文字』

 「表意文字」の中の『正訓』は、やまとことばに同じ意味の漢字を当てるものです。
 漢字をやまとことばで読んでいるのでおおよそ「訓読み」の漢字です。
 おおよそと申しましたのは、『正訓文字』で書き表せないやまとことばがあるからです。中国語は『孤立語』で活用語尾や助詞がない一方、日本語は『膠着語』といってそれらがべたべてついている訳で、これが中国語にない以上、同じ意味の漢字を当てられない。

 「<簾動之(すだれうごかし)>の<之(し)>、また<草枕 旅之衣 紐解(くさまくらたびのころもひもとけて)>の<之(の)>、これも違います」
 と著者は例示しています。
 前者の<之(し)>は表音文字であり中国語に文法的に存在しません。
 後者の<之(の)>は、日本語の「の」にあたる「之(ジー)」という語があり<訓読之世界(シュントゥー<ジー>シージエ)などと使われます。

『義訓文字』

 「表意文字」の『義訓』は、意図的に選んだ異なる意味の中国語をやまとことばにあてるものです。

 「<寒過 暖来良思(ふゆすぎてはるきたるらし)>の『ふゆ』ということばに<寒>という字を当てるのです。『ふゆ』ならふつう『冬』という字をあてますけど、『冬』は寒いから<寒>と書いて『ふゆ』と読ませているのです。同じく春は暖かいから<暖>と書いて『はる』と読ませています」

これは、脳科学的には、聴覚刺激の『ふゆ』と視覚刺激の<寒>が新しい言語刺激のクオリアを形成していることになります。そこに「ふゆはさむい」という思考が連携することになり、とても立体的な認知表現パターンとなります。
「西」と書くべきところを五行説にちなんで<金>と書いて「にし」と読ませる、
「東」と書くべきところを五行説にちなんで<角>と書いて「ひがし」と読ませる、
などがあります。

あと、中国にはない助詞をあてるのに『義訓』を用いる場合がありました。
「てし」という助詞を<義之>と書くのは、六朝時代を代表する書家、王羲之にちなんでいる。書家のことを「手師」ということからの連想だそうです。
つまり、『義訓』は何らかの中国からみの知識を前提にした連想に由来しています。

私が混乱してよく分からないのは、さきほどの『正訓文字』に、<年魚(あゆ)><芽子(はぎ)><白水郎(あま)>があることです。
<年魚(あゆ)>は、鮎が一年に一回、川を上り下りすることにちなんでいる。ただし、<鮎>は中国語では鯰のこと。
<芽子(はぎ)>は、中国語で芽のことなのに、「はぎ(萩)」にあてた。
<白水郎(あま)>は、なんと白+水で泉、泉州の人たちが漁師であることにちなんでいる。
これらも何らかの知識を前提にした連想に由来している訳ですが、その知識ないしは連想がこちら日本人ベースであることで、『正訓文字』と分類されるのでしょうか?

私は国文学者ではないので、そのあたりの消息を極める余裕も能力もありません。
私はむしろ、
外来の言葉や事物を媒介にした認知表現パターン、発想思考のバリエーションが多種多彩に存在したこと、
それが日本人の特徴的な発想思考(たとえば、「文明語」「認識語」「自国化語」〜「詞付」「心付」「匂付」)に収斂されて現代に至ること
に注目したいと思います。


『音仮名』

 「表音文字」の『音仮名』は、いわば中国音を使った一字一音のローマ字書きです。
 平仮名、片仮名の原形と言えるでしょう。

 <伎弥乎麻都(きみをまつ)>
 <加奈之可利家理(かなしかりけり)>
 <加>は平仮名の「か」の字母だそうです。

 「一字一音で書いてあるだけではなくて、その字が、『き』なら<伎>、『み』なら<弥>というように固定しつつあるのです。
  それがもうすべて固定してしまったのが『片仮名』や『平仮名』です」

 最近(2006年現在)、「ギャル文字」なる、10代女子の間で、ケータイの記号を使って作った平仮名や片仮名が流行しているそうです。

 さ: 廾・±・(十・L+
 し: ι・∪・U
 す: £
 せ: 世
 そ: ξ・ζ・`ノ・丶/・ヽ丿

 これを見て私たち大人は、何やってんだと思ってしまいます。
 しかし、冷静に考えてみると、そもそも仮名は発音を一字一音で特定できればいいという発想から生まれたのですから、ギャルたちは万葉人が漢字をみた時と同じ発想で従来の仮名、漢字、記号をとらえていると言えます。
 つまり、万葉人の文化的遺伝子をいまのギャルもちゃんと受け継いでいるのです。

「音仮名で書いてある中に、島のようにポツンポツンと正訓文字が浮かんでいるということがあるのです。
 つまりそれは、仮名書きで書くより漢字で見たほうがわかりやすいという、そういう類いのことばなのです」

 <年月婆奈可流々其等斯(年月はながるるごとし)>
 <年月(としつき)><世間(せけん)><日月(ひつき)><父母(ちちはは)>など、
 日本人の間に慣用熟語として定着していったものです。
 やがてこうした『正訓文字』の慣用熟語が仮名のなかに浮かぶようになっていく過程が、日本人の<視認性>と<情緒性>を一体に追求する文学的デザイン傾向を形成していったと考えられます。

『訓仮名』

 「表音文字」の『訓仮名』は、漢字の訓読みをそのまま音として仮名に用いたものです。

 <名津蚊為(なつかし)>
 <名(な)><津(つ)><蚊(か)><為(し)>すべて訓読みです。
 訓読みのローマ字、といったら何が何だか分からなくなりますが、一字一音の駄洒落だと言えばぴったりくるかもしれません。

 「何を言う!早見優」
 「ヤクルトが来たよ」「やあ!来ると思った」
 オヤジになると、これはオヤジギャクだと顰蹙を買われるのを承知でどうしても言いたくなく駄洒落があるものです。で、言うとスッキリする。
 これも、万葉人の文化的遺伝子のなせる業かもしれません。


本項の最後に、ちょっと横道にそれますが、著者は貴重な知識をさずけてくださったことを付け加えておきます。

「中国語と違って、日本語は蒙古語の系統、さらに北方語の系統を引いているから、こういう『活用』があるのです。連体形とか終止形とか、国語の時間に習ったと思いますが、あれは北方系のことばの特徴です。
 また『わ・た・し』のように、各音ごとに母音がつきますが、これは南方系のことばの特徴です。
 日本人というのは、北からの来た人、南から来た人と、まさにチャンコ鍋みたいになっています」

すでに本ブログで繰り返し、「母音主義」が日本語とポリネシア語だけであることは述べてきました。しかし、「活用」が大陸北方由来であって、その活用が「母音変化」による、という形で融合した訳です。
人間は母国語で物事を考える以上、その考え方やその成果である考える物事は必然的に母国語の構造に制約されます。
ということは、
日本語は、南方系の考え方と北方系の考え方を融合する考え方をいにしえの日本人にさせた
ということに他なりません。
(私はたまたまその好例について最近検討しました。
 それは「ふんどし」です。
 越中褌が中国から、六尺褌がポリネシア諸島から来ているとのことです。
 そして「褌(ふんどし)」の到来は、どうも漢字の採用過程と重なっているようなのです。
 詳細は、別途論じますが、着物の原点である「袷(あわせ)」と「正座」の到来と重なっていて、御本家中国は3者ともに8世紀にはやめてしまっているのです。私は国風文化の精神的支柱である神道、その滝行との関係に注目しています。なお、サーフィンはポリネシアの祝祭儀礼を原点とするのですが、六尺褌様のものを着用してしていました。私は滝行とサーフィンの間にアニミズム的な相同があるのではないか、とも夢想しています。
 参照:「正座と合わせの着物と褌がなぜセットで日本に残ったか」
     http://cds190.exblog.jp/4629889/



「日本人の情緒性の土台は大和言葉のメカニズム(5/5)」
 http://conceptos.exblog.jp/25056768/
 につづく*
by cpt-opensource | 2016-03-18 12:06 | 発想を個性化する日本語論


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