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日本人の情緒性の土台は大和言葉のメカニズム(1/5)

「日本語の力」中西進著/集英社文庫 発


日本人は日本語で物事を考える以上、発想や思考は日本語の構造に制約されている。
制約されているというと限界づけられているようですが、日本語ならではの特徴によって独創することが容易にできるとポジティブに捉えることができます。

日本語の特徴については、本ブログでも、漢字、カタカナ、ひらがなの混合遣い、漢字の音読みと訓読みの両用について検討してきました。
一方、漢字が採用される前の大和言葉にこそ、日本語の特徴の源泉があり、それを大切にするがための特異な漢字採用の仕方だったのだ、と考えられます。
それは、日本人が「述語主義」において情緒性を起点に物事を認知し表現した、ということでした。
本論では、本書の内容を踏まえて、こうした考えの骨子を「コンセプト思考術」(http://cds190.exblog.jp/23673697/)の内容と関連づけながら具体的に概説していきたいと思います。




仲間言葉

態度を「慎ましくする」、言葉を「慎む」とは、単に大人しい態度をとることでもなければ、何も言わないことでもない。著者はこう述べます。
「『つつましい』や『つつしむ』ということばは、風呂敷に物を『包む』のと同じことばである。
 だから勝手な態度や物いいを、まるで風呂敷に包むように包みこめば、慎んだことになる。そんな簡単なことなら、だれでもできるだろう。
 ところが面くらうのは『慎ましい』と『包む』が同じ日本語などと、ほとんどの人が考えていないからだ。中には『漢字がちがうじゃないか』と反撃してくる人もいるだろう。
 漢字はお隣の中国からの借り物。日本語では同じなのである。のみならず慎み深い態度が、万事あからさまにせず奥ゆかしく振る舞うことだといえば、大概の人は合点がいく」

コンセプト思考術の観点と用語法から言えば、これは<コトの感覚>の同一性で大和言葉が成立していたメカニズムです。
著者は、こうした同じ大和言葉を根っこにもつ言葉を「仲間言葉」と呼び、大和言葉のメカニズムを解説していきます。

「『荒々しい』『嵐』『改まる』『新たな覚悟』などと書くと、みんな別語のように見えるが、すべて『あら』を内容とする同語である。(中略)新たになることが改まることで新しいものはなじんでいないから荒々しいのである。なじんでいないどころか、すさまじい風は嵐である。
 そうなるともう一つ『洗う』も仲間になる。体を洗うと体は新しくなるのであり、心が洗われると、新たな心の誕生となる。まさに、生まれることは『ある』といった」

「『怪しい奴』といいながら、一方では『ことばの綾だ』という。美しい模様は目もくらむばかりで説明を越えている。不条理なほどだといえば、『春の夜の 闇はあやなし 梅の花』という古今和歌集の歌になる。目に見えないが香りをただよわせるから理屈に合わないというわけだ。『怪しい奴』は素振りが合点できないから『あやしい』のである」


働き分類

「一方、やまとことばには、もう一つの大きな特徴がある。(中略)
 たとえば美しくサクラの花が咲いている。その花におおわれた岬の鼻を、船が廻って行く。のどかな午後、うっとりと見ているわたしの鼻さきに蝶がひらひらと舞う。
 この鼻も岬の先端も、顔の鼻も、物体として見ると、みんな別物である。ところがすべてを日本人はハナと名づけたところを見ると、三者とも、どうやら同じ物だと考えたらしい。
 どれも先へ出るもので、その先へ出るという動作においては三者とも別物ではない。(中略)
 つまり『物』として分類すると別々のカテゴリー(範疇)のものとなる三者も、動作やその結果としての状態、すなわち物の『働き』(筆者注=コト)から分類すると同じカテゴリーに属するのである」

「現代人はたった一つ『物分類』しかもっていないから、花と先端と鼻とはまったく別物で、たまたま気がつくと発音が同じだぐらいにしか思っていない。
 そして、『物分類(筆者注=モノ分類)』とまったく対立する『働き分類(筆者注=コト分類)』とでも呼ぶべき分類法があることに、ほとんどの人が気づいていない。
 しかしわたしの見るところ、日本人本来の分類法-----万物を秩序立てて区分することによって知識の中に所有していく方法は、じつに『働き分類』らしいのである」

「カゲということばで日本人が一括する物は、光であると同時に光のささない場所である。日なたと日かげが同じ物だなどと、物からいえばだれも信じられないのに、それを同じと考える方にわが身を合わせて理解してみなければならない。すると、光が明滅すること、明滅する光が及ぶところを、カゲとして指定したのだということがわかる」

「よい香りとはなやかな色どりとは、まったく別物だと、百人が百人考えて疑わない。嗅覚と視覚の違いもある、と。
 しかし日本語では、両方ともニオイという。つまり一つの範囲に入れられるものが香りと色どりだというのである。
 そんな馬鹿なと、といわないで考えてみると、ただよい寄ってくるものが、ニオイらしい。美しい色彩は、じっと沈んでいないで、迫力をもって浮き立ってくる。「匂うような美人」というではないか」

コンセプト思考術の観点と用語法から言えば、これは物として捉えれば別々の<モノの感覚>をも<コトの感覚>の同一性で認知し表現するメカニズムです。
私は、これは情緒が発生するメカニズムであり、それを重視して情緒を発生させるべくそうした認知表現をしたパターンと捉えることができる、と考えています。

著者はこう総括します。
「こうした働きは固定した物体ではないから、物体本位の思考にはなじまない。
 まさに物体を物体として徹底的に区別し区別していった物の個別性を認め、その上で分類し、名前をあたえてゆくという、近代科学主義とは正反対の考えが、この『働き分類』による区分である」
「物は分析されつくすことによって、それぞれ孤独になった。その孤独を救うために、もう一度日本古来の考え方で親戚を作ってみてはどうか」
ここでいう「親戚」とは、「仲間言葉」のことです。最近の事例では「もったいない」という言葉が世界共通語になろうとしていることが挙げられます。つまり、「もったいない」はモノ割りを越えた<コトの感覚>の大切さを認知表現していると解釈できます。

個別具体的な<モノの感覚>を捉える認知表現のパターンは世界中に多様にあります。
しかし、それら個別具体的なモノ割りを越えて統合抽象的な<コトの感覚>に捉え直そうとする認知表現パターンは日本人が古来得意としてきたものです。
私は、日本語の「カタ(型)」の本質とは、この「個別具体的なモノ割りを越えて統合抽象的な<コトの感覚>に捉え直そうとする認知表現パターン」のことではないか、そう直観しています。

草柳大蔵さんはその著「花のある人 花になる人」で、
「かたち=型(カタ)+血(チ)」ですと述べています。
「『かた』は、お化粧や服装でつくることができます。しかし、『かた』には『ち』が入らないと『かたち』にならないのです。『ち』は血、乳、霊です。『水霊』と書いて『みずち』と読むでしょう。そのように『かた』には人間の意識が加わって、はじめて『かたち』になるのです」
この人間の意識には情緒も含まれます。日本人の場合、特にその含有率が高い。
これは、伝統文化のことだけではありません。日本人が新しい制度やシステムや知識体系を導入してもそれは単に新しい「かた」であって、それを操る人間の意識が加わらなければ、仏つくって魂いれずの状態になるといった、日本人が物事の価値を見極めようとする際の万事に通じることではないでしょうか。

では、「ち」=人間の意識が先行すればいいか?というとそうではなく、やはり「かた」という共同知が前提であることを、草柳さんは同著で「形振り(なりふり)」についてこう述べています。
「形振。なりふり、と読む。『形』は平俗にいえば『サマになっている』ということです。『振』は目立ちもしなければ卑屈でもない、つまり『過不足のない動作』ということなのです。(中略)
 仕事は、もともと、そのような作為を嫌うものです。作為がつよすぎると作為のための仕事になってしまう。
 仕事から美意識が生まれ、美意識から形振のよい人をつくるのは、仕事が形から入るからです。人間の動作には『かた』が必要です。『かた』を無視した動作をするとエネルギーのロスが起こります」
思考において、この「かた」に相当するのがスキーマであり、パラダイムです。
日本人にとって「パラダイム転換の課題」は、形振を構って、型破りをする序破急にあるのかも知れません。


大和言葉の思考

著者は「やまとことばの豊かさ」という章を、こう総括します。

「哲学者・和辻哲郎が残した多くの業績の中でも、もっとも注目すべきものの一つに、やまとことばによる哲学的思考がある。
 たとえば和辻は日本語と哲学の問題においても、日本語が学的概念の表示として用いられることが少ないのは、理論的方向における発展の可能性をただ可能性としてのみ内蔵していたことを示すのにすぎないのだといい、日本語-----本来のやまとことばによる考察を試みた(『続日本精神史研究』1929)。
 そこで大きくとり上げたのは『こと』と『もの』であり、
 『こと』は動作や状態がそれとしてあることを示し
 『もの』はたとえば『動くもの』といった場合、ものの動作としてものをその中身において増大するととく」
後者は、コンセプト思考術で言う<モノの機能>のことです。

「和辻が開拓したこの道は、りっぱに開拓者としての役割をはたし、後継者によって発展させられている。
 たとえば言語学者池上嘉彦は、
 個体に焦点を当てて表現する場合
 出来事全体として捉えて表現する場合とに区別し、
前者をモノ指向
後者をコト指向的な捉え方だという(『<する>と<なる>の言語学』)。
 これは和辻が見てとった、それとしてあることをさす「こと」と、増大を中味とする「もの」との区別と、矛盾しない。むしろその発展的な考察といってよいであろう」

(参照:
 「母語が民族の発想思考を特徴づけるとはどういうことか(4)」
  http://cds190.exblog.jp/22823668/
 「(5)」
  http://cds190.exblog.jp/22833703/
 「(6:結論)」
  http://cds190.exblog.jp/22836901/


「英語学者安西徹雄はこれを日本語と英語の区別にも応用できるとし、英語はコトタイプ、日本語はモノタイプだという。英語は名詞中心であり、日本語は動詞中心であることも実証的に説明しており、これまた、説得性のある論である(『英語の発想』)」
これは、英語は「主語主義」、日本語は「述語主義」という捉え方に重ります。
これについては、私は、
英語は、コトに着目しそれをモノとして捉えようとする認知表現のパターン(因果律のような抽象性から具象を捉える)が色濃く、
日本語は、モノに着目しそれをコトとして捉えようとする認知表現のパターン(具象から縁起(因果律+共時性)のような抽象性を捉える)が色濃い、
という現代にまで通じる傾向を捉えることができないかと検討しています。
著者が、
「そして、英語と日本語を対立項とせず、ものとものとの関係としてことが捉えられる、とするところに大きな収穫が感じられる」
としていることについては、私は、
 欧米的な<知>起点の発想思考 
 日本的な<情>起点の発想思考
 中国的な<意>起点の発想思考
を、それぞれに
 <モノの機能>の重視
 <モノとコトの感覚>の重視
 <コトの意味>の重視
を特徴とする概念形成メカニズムとして把握できないかと検討しています。

「和辻が当面した問題は、まず学術語としてやまとことばが使えるかどうかという点にあった。さかのぼって明治初年、西欧学の導入に当たって西周たちは厳密な内容をもつ学術語としてやまとことばを排し、漢語による新しい造語を試み、以後の学術がその学術語の上に蓄積されてきたのだから、これは当然のことであった。
 しかし、和辻の試みは学術語の可否という、いわば対象を固定した上で用語の適否を考えるという順序とは逆に、やまとことば(筆者注:のメカニズム)をまず固定して、その対象とする中味を探ろうとする方向へと向かうこととなった」

(参照:
 「母語が民族の発想思考を特徴づけるとはどういうことか(1)」
  http://cds190.exblog.jp/22803997/
 「(2)」
  http://cds190.exblog.jp/22808517/
 「(3)」
  http://cds190.exblog.jp/22816628/

私の「日本型の集団独創における認知表現パターン」の日本語の特性に着目しての究明も、この和辻の試みと似た枠組みにあるように思われます。


大和言葉を源泉とする日本人のデザイン思考

日本人のデザイン思考の特徴といえば、誰もが「型」を挙げます。
しかし、「型」を求めた志向性の淵源を知らなければ、海外のスタイルやパターンとの違いを明快には説明できないでしょう。
著者は「ことばの舞台」という章で、こういうことを述べています。

「美しい姿をとる『よそおう』は必要な心がけであろう。
 そもそも『よそよそしい』とか『心もよそだ』などというように、『よそ』は自分と関係がないことを意味する。だからこそ『化けて粧う』ことにもなったのだが、他者を意識して、少しでも自分を美しく見せたいという気持ちは、尊い」
「『よそう』は『よそおう』と同じ。(中略)
 この『よそう』を現代人は、つい先ごろまで、茶碗に飯を盛るときにも使った。(中略)
 古代日本では飯を盛るのは女に限られていた。本来飯は神に捧げられるもので、女性が神事に奉仕したからである。(中略)
 しかしいま、すべての家庭で『よそう』が使われているだろうか。(中略)ましてや、『よそう』ということばの意味をどれだけの人が知って使っているだろう。
 文化を支えることばも、舞台がなければ登場できない。舞台-----日常習慣の見直しから始めて、ことばの力を復権させることで、日本文化の美しい伝統を保つことがはじめて可能になるであろう」
著者は、デザイン思考に直接言及している訳ではありません。
しかし、デザインが単なるモノの色や形の問題ではなく、生活のスタイルやシーンやポリシーを体現する仕掛けである以上、私たち日本人がその言葉の文化の内に、そもそも特徴的なデザイン思考があったことを、著者は語ってしまっているのではないでしょうか。

私たち一人ひとりが、「美しい暮らし」そして「美しい国」について考えていく際には、ぜひとも大和言葉のメカニズムを振り返りたいものです。
(補記:本記事執筆は2006年、「美しい国」をキャッチフレーズにした第一次安倍政権だった。)


「日本人の情緒性の土台は大和言葉のメカニズム(2/5) 」
 http://conceptos.exblog.jp/25046908/
 につづく*
by cpt-opensource | 2016-03-15 04:00 | 発想を個性化する日本語論


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