「ひらがな思考術」関沢英彦著 ポプラ社刊 発
(5) http://conceptos.exblog.jp/25032060/ からのつづき。 本項(6)では、第四章「あらわす」の後半を検討する。 ひらがな言葉は「場で人や物事と相対した印象」を認識し表現する 著者は、「ひらがなは 現場のことば」という項目で、改めて言葉遣いについての重要な事柄を思い出させてくれる。 「ことばには、二つの役目があるといえます。 何かを知り、調べて、考えること。これは認識のためのことばです。 そして、自分を奮い立たせ、ひとに呼びかけ、前に進むこと。これは、実践のためのことばです」 「コンセプト思考術」では、二日目午前中講義で、「情報の領域」ということを解説している。 その際、以下のような概念ポートフォリオを使うのだが、「情報の目的」で縦軸を設定して<知識を伝達するための情報>対<行動を喚起するための情報>としている。 この<知識伝達の情報>を表現するのが認識のためのことばで、 この<行動喚起の情報>を表現するのが実践のためのことばである。 前者は「静態的」コミュニケーションに関わり、 コンセプトの持つべき戦略性「象徴性」(①物事の価値の全体像が分かりやすく②魅力的であること)を担う。 後者は「動態的」コミュニケーションに関わり、 コンセプトの持つべき戦略性「起動性」(①主体的な思考そして②行動を誘発すること)を担う。 (参照: 「10)情報対応特性による階層分類の『コト実践層』が情報をリードする 前半」 「2)「コセンセプト」の持つべき戦略性」) ちなみに、<コトについての情報>×<行動喚起の情報>の象限をベースとして他象限の情報を判断する階層を「コト実践層」と名付けている。 彼らは自らの実践によって一次情報源となる生活創造者やビジネス創造者である。 彼らが自らの判断や実践を振り返る場合、ひらがな言葉が借り物ではない力強い表現となっている。彼らには「物語」があり、その個性と面白みはひらがな言葉で表現される。 著者は、スポーツ選手の「自分のからだを通して何かを感じ取り、考えを進めていく」表現を例示してこう述べる。 「『流れをつかむ』『コースをこころに描く』『花が咲かないときは根を伸ばす』といったように、やさしいことばで、自分のやっていることをとらえ直す。そうしたことばが、またからだにしみ通っていって、動きに現れる。 からだとことばが互いに働きかけるとき、ひらがなは、漢字や英語のことばよりも、からだの奥にまで達する力を持っている」 次に経営者についてこう述べる。 「社内のみんながこころをひとつにして前に進もうと思わせるには、『はらに届くことば』に直していかないと効き目がない」 そしてこう締めくくる。 「どちらも呼びかけです。 『動こうよ』という実践のことばは、紙に書かれるよりも、声に出されたときに初めてしっかりと届くことばになります。肉声だとさらに良い」 「ひらがなで表されるようなことばは、口の端にのりやすいものです。 実社会の現場も、声が届かなければ、ひとは動きません。 『はらからでたことば』が『むねをうつことば』となります。 『みをきるようなおもい』こそ『きもにめいじてわすれないおしえ』となる」 著者はこのように示唆するにとどめているが、日本語を特徴づける「多様な身体語慣用句の多用」こそが、<行動を喚起するための情報>を効果的に表現する仕掛けとなっている。 そして、身体語慣用句もひらがな言葉である。 身体語慣用句については、すでに詳しく検討したが、<身>を例に少し復習しておこう。 「日本語の身体語慣用句の特徴を中国語から探る(19)その他2/2」で、 「リアルな身」をどうするという動作、どうしたという状態をメトニミー使いする言い回し(<現実換喩系>)と、 「ヴァーチャルな身」をどうするという動作、どうしたという状態をメタファー使いする、どちらかというと抽象的な表現内容の言い回し(<仮想隠喩系>)とを、 日中英で具体的に比較検討して私はこう結論している。 長いが以下に箇条書きで引用し、本論と関係深いところを太字にする。 ◯日本語は「自然=神」(=<情>←身体性と情緒性の渾然一体)がすべてに働いているというアニミズムの心身一元論にあり、 中国語は「天意=気=劲儿」(=<意>)がすべてに働いているという陰陽五行の心身一元論にあり、 「心(こころ)」と「体(からだ)」、「心xin1」と「体ti3」に重なるところがある。 その重なりが、「心」をもつ人間の「体」だけを限定的に意味する「身」である。 よって、「体」は人間や動物、物体まで幅広く使用されるが、心や精神、地位や立場などを持つのは人間だけなので、「身」そして「身体」はほぼ人間に対してのみ使用される。 以上のような「心」をもつ人間の「体」だけを限定的に意味する「身」のメトニミー使いとメタファー使いが多様でありかつ多用されるのが、日本語と中国語「身」慣用句に共通する東洋的な特徴と言える。 (これに対して英語は厳格な心身二元論にあり、「body」と「heart」「spirit」は重なるところがない。) ◯では、日本語の「身」慣用句と中国語の「身」慣用句の違いは何かというと、 日中両方に「身」で地位や立場を意味する言い回しがある一方で、 「身」で心や精神を意味する言い回しが日本語にしか見当たらないことである。 たとえば、 「身を焦がす」=焦思jiao1si4、想得要命xiang3de0yao4ming4 「身に染みる」(体験)=深刻shen1ke4 「身が引き締まる」(気持ち)=令人ling4ren2紧张jin3zhang1 「身につまされる」=引起yin3qi3身世的shen1shi4de0悲愤bei1fen4、感到gan3dao4如同ru2tong2身受shen1shou4 などの「身(み)」は、実質的には「心」という抽象概念を意味している。 ただ、「身体感覚をともなった情緒性」「情緒性をともなった身体感覚(態度)」を強調的に含意していて、そこがイコール「心」ではない重要なポイントである。 ひらがな言葉が<行動喚起の情報>を表現する実践のためのことばであることとの絡みでは、 ひらがな言葉である身体語慣用句の有り方が、 動機となる「心」と行動を具体化する「体」を一体化した「身(み)」である身体語を媒介にしている、そういう捉え方を反映している、 ということである。 ◯さらに、日本語の身体語慣用句の特徴として、 「足が向く」 「目が覚める」 のような、 身体の特定部位に主体性を想定し、意識ではなく無意識が主体性を持つ動作状態を表現するものがある。 「〜に身が入る」がこれに相当する。 この場合も、「身」は実質的には心や精神を意味してイコール「心」ではなく、集中や必死などの「身体感覚をともなった情緒性」「情緒性をともなった身体感覚(態度)」を強調的に含意しているところが重要ポイントである。 ◯また、日本語の身体語慣用句の特徴として、 「足を運ぶ」 「手を煩わせる」 のような、 もう一人の自分が自分の動作状態をメタ認知して主体の情緒性を表現するものがある。 「身に覚えがない」「身につまされる」がこれに相当する。 この場合も、「身」は実質的には心や精神を意味してイコール「心」ではなく、「身」慣用句の意味のネットワークにおいて「身の潔白」などに隣接する正直さや「身が引き締まる」などに隣接する深刻さなどの「身体感覚をともなった情緒性」「情緒性をともなった身体感覚(態度)」を強調的に含意しているところが重要ポイントである。 ひらがな言葉が<行動喚起の情報>を表現する実践のためのことばであることとの絡みでは、 ひらがな言葉である身体語慣用句の有り方が、 主体が意識的に思う「心」が動機となる場合ばかりでなく、主体が無意識でも言わば「心」をもった「身(み)」が反応してしまう場合もある、そういう捉え方を反映している、 ということである。 ◯多彩な漢語をそのまま使うのではなく、 一つの大和言葉の「み」=「身」という身体語キーワードを媒介に、 特に「身体感覚をともなった情緒性」「情緒性をともなった身体感覚(態度)」を含意する多様な言い回しを多用してきた。 それは、日本人が自他の人間関係や人間と自然の関係の調和を尊重すること(縁起にのっとった<情>起点)を、コミュニケーションの第一義としてきたからではなかろうか。 ひらがな言葉が<行動喚起の情報>を表現する実践のためのことばであることとの絡みでは、 ひらがな言葉である身体語慣用句の有り方が、 日本人が、主体が行動を喚起したり実践するライフワールド(生活世界)というものを、縁起にのっとった<情>起点の現象世界として受けとめていた、そういう捉え方を反映している、 ということである。 縁起とは、因果律と共時性が未分化に渾然一体に認識される原理である。 つまりは、自然そのままを摂理として受けとめる心性であり、石器時代に人類が普遍的に共有した<部族人的な心性>の根源に他ならない。 自然を縁起にのっとった<情>起点の現象世界として受けとめた、ということは、 自然の森羅万象の一つ一つに神をみてその現象の原因として神の<情>を仮想した、ということに他ならない。そしてそれに応える形で、人間は自然という神に感謝したり畏怖したりした。 そこで人間は自然を構成する一部として自らを位置づけるから、人間同士の人間関係のあれこれも自然のようなものとして受けとめた。 日本列島に住んだ人間の場合、人間同士の人間関係のあれこれも、日本列島の四季の移ろいや山川草木の所によって品かわる有りようのようなものとして受けとめた訳である。 日本人はこうしたライフワールド(生活世界)において主体的に行動を喚起したり実践してきた。 それを言葉に表現するにおいて、 動機となる「心」と行動を具体化する「体」を一体化した「身(み)」である身体語を媒介にしてきた、 ということは、 自然の森羅万象の一つ一つに神をみた日本人が、その現象の起点として神の<情>という動機を仮想し、その現象の帰結として森羅万象を捉えた、 ということに構造的に一致している。 著者が、本書において身体語および身体語慣用句の重要性を例示によってあっさり触れるにとどめた理由が分かる。 身体語慣用句というひらがな言葉は、<行動喚起の情報>を「動こうよ」と表現するだけでなく、「動かないと大変だ」とか「私は本気で動こうとしている」とか心理的に奥深く表現するものでもあり、それを精緻に説明するにはもう一冊本を書かねばならないくらいだ。 以上のような私の検討は、門外漢の素人だからエイヤーと荒削りにやってしまうが、おそらくその筋の学者には恥ずかしくて出来ないことで、真面目にやれば一冊どころか数冊の本になってしまうだろう。 (参照:「日本語ならではの身体語慣用句の特徴と『述語主義のダイナミズム』」 http://cds190.exblog.jp/17284772/) 和語は「あたまとこころ」「知と情と意」をしっくりさせることを役割とした 著者は、本章の最後に添付した「ひらがなノート」で、「和語には解毒作用がある」というタイトルで和語の使用状況を整理してくれている。 「『漢語との比較を通してみた和語の特色としては、主に次ぎの5点が指摘されている。 (1)語彙全体としてみると、異なり語数では漢語、延べ使用度数では和語が優勢である。 (2)基礎語彙を品詞別に分類してみると、名詞では漢語、動詞では和語が優勢である。 (3)複合語は漢語に多く、和語は単独で用いられることが多い。 (4)語の表す意味範囲としては、和語には抽象概念を表す語が(殊に名詞)が少ない。 この種の語彙の多くは漢語に依存している。 (5)同じ意味内容を表す語の場合、漢語は文章語、和語は日常語として使われることが多い」 (竹内美智子『和語の性格と特色』・佐藤喜代治編『日本語の語彙の特色』明治書院) 「一般に外来語はまず実質名詞の形で受け入れられる。それは物や制度(筆者注=モノの機能)や思想(筆者注=コトの意味)を表す語として日本語の仲間入りをする。漢語の通った道も同じである。 これに対して、本来文の枠組みに携わる語彙は固有語の領域であり、そこには日本語が日本語である限り外来語の侵入を受けることが殆どないからである」 (同書) 「文の枠組みは固有語(筆者注=和語)が受け持つということは、ひらがなで表せることばが日本語の土台を担っていることを意味します。 そこに、外来語としての漢語が入ってきました。漢語に『〜する』を加えれば、簡単に動詞になってしまいます。(中略)基本的な動作(筆者注=身体動作)を表す和語の動詞と、漢語から取り入れられた動詞が競い合ってきたのです。 漢字は一文字である概念を表しています。それを組み合わせれば、複雑な概念をいくらでも表現できるわけです。それに対して、ひらがなは一文字では、音を表すだけなので、概念の組み合わせをすると長くなってしまいます。 紫式部は、努めて和語で複合動詞を作ったようです。ところが、『あがめかしづく・あだえかくす・あつかひおこなふ・あらがひかくす・あらためかはる』などの苦心の作は長続きはしなかったとのこと」 このことには、ひらがな言葉の複合では歌い言葉としての表現性が不鮮明になることや、漢語の複合の方が書き言葉・読み言葉としての視認性が高いことが大きく作用したと思われる。 今で言うフォトリーディングに漢語は向いていた。文章を音読する習慣は戦後まで一般的だったのだが、音読するに際して事前に文字の表す概念を視認できることは肉声の表現をより確かなものとする。言葉の天才は新しい言葉遣いの効用に抗うことができなかったのではなかろうか。 「結論として、専門家は和語の現状を次にようにまとめています。 『和語の複合力が衰えて今日の状況に至ったのもやむをえない面が和語側にもあったと思われる。そして、その結果、和語は最も具体的な語彙ときわめて抽象的な語彙とに片寄る傾向が見られ、中間の、物事を精密に分析し理解するために必要な抽象語に乏しくなったといえる』(同書) 『最も具体的な語彙』とは、『あさがきた。おひさまだ。さあかおをあらおう』といったことばでしょう。(筆者注:具体的な自然現象や身体の名詞と動詞、形容詞と形容動詞など。) 『極めて抽象的な語彙』とは、朝の情景を受けて語るなら、『いま・とき・あらたまる・こころ・あたらしい』といったことになります。(筆者注:抽象的な自然現象の名詞と動詞、形容詞と形容動詞など。)」 「世の中を知るためには、漢字で考えることが欠かせない(中略)。ところが、そこにばかり力を注ぐとさまざまな問題が生じてきます。 自分のからだや気持ち(筆者注=身体感覚をともなった情緒性をも表現するモノの感覚とコトの感覚)とはかかわりなく、あたまだけで筋道をつけていくことが増えるからです。(中略) 漢語の不消化の議論を和語で解毒する。それが、ひらがなで考えることの良さなのでしょう」 じつは日本人は、漢語の導入において、漢語の文化の重要な側面を捨象していた。 それは、漢語をカタカナ英語同様、最初に名詞として日本語の仲間入りをさせたことに由来する。外来語を名詞=概念要素として導入し、概念要素の繋ぎ方については「あたまだけで筋道をつけていく」ようにしたということだ。 一方で、固有語である和語の名詞は、和語で形容され、和語で繋がれ、「あたまとこころ」さらには「知と情と意」をしっくりさせるようにした。 これは現在、私たちも無自覚的に行っている。 たとえば、「両親に感謝する」「親を有り難く思う」という言い方を比べた場合、「あたまとこころ」のしっくり感があるのは「親を有り難く思う」ではないか。 たとえば、「旅館に宿泊する」「ホテルにステイする」「宿に泊まる」という言い方を比べた場合、「知と情と意」のしっくり感があるのは「宿に泊まる」ではないか。 私たちが、仕事の専門的な思考においてやっているのは、一般的には漢語とカタカナ英語の多用であって、「あたまだけで筋道をつけていく」概念要素の繋ぎ方である。 そこでは、ともすると「あたまとこころ」さらには「知と情と意」のしっくり感が欠落している。 それが、著者の言う「漢語の不消化の議論」の状態なのだ。 さらに私は、 あたまだけで筋道をつけていくとは、「因果律」(原因Aが結果Bをもたらす)にのっとることだと思う。 そして、 「あたまとこころ」さらには「知と情と意」をしっくりさせるとは、「因果律」と「共時性」(Aがある時Bもある)が未分化で渾然一体の「縁起」にのっとることだと思う。 中国の漢語文化は、易から生まれ「共時性」を土台とするものであったが、「縁起」を土台とする日本語としての導入においてそれに習合されてしまう。 「因果律」も、「共時性」も、「縁起」も、概念要素の繋ぎ方の原理である。 「因果律」は、原因Aが結果Bをもたらす、という繋ぎ方である。 「共時性」は、Aがある時Bもある、という繋ぎ方である。 「縁起」は、以上二者が渾然一体する繋ぎ方で、私はこれが日本語と日本文化を特徴づける概念要素の繋ぎ方だと捉えている。 私の持論を改めて提示すると以下のようになる。 日本語および日本文化には、 「縁起にのっとった日本的な<情>起点の発想思考」という美点的特徴があり、 それを土台というか容れ物にして、 「因果律にのっとった欧米的な<知>起点の発想思考」の美点と 「共時性にのっとった中国的な<意>起点の発想思考」の美点とを のせてきたあるいは取り入れてきた という「ダイナミズム」がある (参照: 「日本型の集団独創のポイントは、肌で感じ取る日本語と現場相対の触れ合い(年度末総括)」 「<知><情><意>起点の発想思考の概観」表 「『因果律』+『共時性』=『縁起』」の概論) 「共時性」にのっとった、Aがある時Bもある、という繋ぎ方は、現象には「陰」があり「陽」がある、万物を構成する元素として木・火・土・金・水(五行)があるに始まる。「不易」があれば「流行」もあるなどなど、二項対立、三項鼎立という思考の枠組みは概念要素の繋ぎ方として共時性にのっとっている、と言えよう。 「因果律」にのっとった、原因Aが結果Bをもたらす、という繋ぎ方が単線的(リニアー)であるのに対して立体的である。 こうした両者の概念要素の繋ぎ方が渾然一体となる「縁起」にのっとった繋ぎ方とは、具体的にどういうことなのであろうか。 先ず、その成果を提示しよう。 象徴的な例としては、花札の図柄や役がある。 「松に鶴」「梅に鶯」「桜に幔幕」「藤に時鳥(ほととぎす)」などなどの図柄。 「花見で一杯」(別名、花見酒)=「桜に幕」と「菊に盃」、「柳に小野道風」があるとこの役が消滅するルール(雨流れ)、桐を獲得しているとこの役が消滅するルール(霧流れ)あり。 「月見で一杯」(別名、月見酒)=「芒に月」と「菊に盃」、雨流れ、霧流れルールあり。 「猪鹿蝶」=「萩に猪」「紅葉に鹿」「牡丹に蝶」 などの役である。 日本にカードゲームが初めて上陸したのは安土桃山時代で、宣教師が伝えた。時の為政者がカードゲーム禁止令を出しそれを逃れるためにデザインを変える。「花札」もその流れの中から誕生したという。 その際、日本文化の概念要素の繋ぎ方が反映した。 図柄と役の名前はほとんどがひらがな言葉、和語である。 4つのポイントが、日本型の繋ぎ方として着目される。 (1)具体的な自然現象とそれに関わる人間の身体動作をもチーフとしていること。 (2)以上を一年の四季の移り変わりという時空において捉えていること。 (3)Aがある時Bがある、という共時性にはない、 Cがあると流れる、「時を同じく有ってはならぬ」という禁忌性もあること。 (4)概念要素の繋ぎ方が「物語」であること。 「物語」ならば、因果律も共時性も、必然性も偶有性も、繋ぎ方として調和的に 統合してしまう。 私は、以上に「アニミズム」を土台とした「部族人的な心性」を読み取ってしまう。 ひらがな言葉が認識したり表現したりする深層は、ユングのいう集合的無意識であるというのは著者の見解であるが、私も、「縁起にのっとった日本的な<情>起点の発想思考」をひらがな言葉が捉えるという観点から大いに賛同する。 ひらがな言葉=和語は、そもそもは「話し言葉」であるとともに「歌い言葉」であった。 それは信仰的であり、情動から感情に至る無意識を起点として、暗黙知を重視して象徴を体系化する文化を前提としていた。 (参照:「『心性』=部族人的心性+社会人的心性(概念規定メモ)」) 概念要素の繋ぎ方とは、発想思考の仕方に他ならない。 以上のように、「縁起」にのっとった繋ぎ方、その成果は具体的に分かった。 では、その繋ぎ方を繋ぐ発想思考とはどのようなメカニズムとして捉えられるのだろうか。 それについては、「因果的な情動感情プロセスのどこに共時的解釈が可能なのか(1/3)」で検討した。 詳しくはそれを参照してほしいが、結論だけ簡潔に言うと、以下の図のような脳内で「狭義の情動」が生起する過程の全体を全体として捉える認識である。つまりは関連する意識、無意識の概念要素の全体を、どういう回路か繋ぐなり捉えるのである。 この図から明らかなことは、全体を繋ぐなり捉えるなりするに際しては、「苦と快の行動」という身体動作と「狭義の情動」という<情>が鍵になっていることだ。 そして、「意識、無意識の概念要素の全体を、どういう回路か繋ぐなり捉える」上で、「記憶」が重要な役割を果たしている。記憶には「短期記憶」と「エピソード記憶」があり、後者が決定的な働きをしているとすれば、概念要素が「物語」という繋ぎ方で繋がれるのが自然だ。 詳細は省くが改めてアントニオ・R・ダマシオの「感じる脳」を読んで私が確認したことは、 <情>とは、脳が身体の様相を認識し表現する過程であり成果である ということだった。 <情>も<意>も知識ではなくいわば心の有り様であるが、<情>を<意>と隔てるのはまさにこの点である。。 <意>は、脳が欲求の様相を認識し表現する過程であり成果である。身体の様相を認識し表現する過程でもなくその成果でもないことは明らかだ。 身体の様相が欲求の様相を引き起こし、また欲求の様相が身体の様相を引き起こし、その境界はじつに不鮮明ではある。しかし、2極の概念要素が対峙していて相互関係にあることは明らかである。 <情>と<意>は、ともに主観的であり、その相互関係が流動的で不鮮明であるという意味から、暗黙知的である。しかし<知>、知識とは言えない。知識を創造したり知識と知識を結びつける発想思考を促す動機なり端緒と言うべきだろう。 いずれにせよ、 ひらがな言葉が、日本人の知識創造と発想思考を個々の脳内で、固有の母語の共有という仕掛けによる集合的無意識的なやり方で、固有に動機づけ促進するものである、 ということは確かである。 (7:結論) http://conceptos.exblog.jp/25035468/ へつづく。
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| 2016-03-13 04:00
| 発想を個性化する日本語論
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私は自分が実際に日本の企業社会でした経験から普遍的な文脈や客観的な法則を導くために雑学する雑学者です。
「コンセプト思考術」も、フリーランスの構想企画者として複数業界で複数大手の仕事をした30代までの体験に基づき40代にノウハウ化、企業や自治体に研修したものです。 40代、様々なプロジェクトのプロデューサーとして集団や組織と関わった経験から、日本人ならではの発想思考や集団独創を肌身で感じとり、50代、それについての仮説を検証すべく科学や歴史を雑学してきました。 還暦になる今年を期に、これも本ブログで整理していきたいと思います。 20世紀後半、戦後日本の企業社会そしてマーケティングの実際はどんなものであったか、一般的に確かに息づいていた日本型経営や日本人ならではの集団独創とは実際の現場としてはどんなものであったか、ご興味ご関心のある方におつきあいいただければ幸いです。/ その他のジャンル
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