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日本語の身体語慣用句の特徴を中国語から探る(11)心臓

「(10)胸 」
http://conceptos.exblog.jp/24765580/
からつづく。



心臓(心脏xin1zang4)

49.心臓にけがはえている 脸皮厚lian3pi2hou4=面の皮が厚い
             胆子大dan3zida4=肝っ玉が大きい
50.心臓がとまる     惊讶jing1ya4=事の意外さに驚く 
             震惊 zhen4jing1=びっくり仰天する、驚愕する
51.心臓にわるい     令人担心ling4ren2dan1xin1=心配させる



「リアルな心臓」をどうするという動作、どうしたという状態をメトニミー使いする言い回し(<現実換喩系>)を見ていこう。

「心臓がとまる」「心臓にわるい」「心臓が強い」という身体状態は、「リアルな心臓」の無意識的な情動反応ないしは身体反応であり、それを部分としてメトニミー使いしてある情緒性という全体を表現している。本当に心臓が止まるとか悪いとか強いということが言いたい訳ではなくて、それに見立てる情緒性を表現していることは言うまでもない。
ところが中国語の「心臓=心脏xin1zang4」を使った言い回しは、そんな日本語のような情緒性は表現しない。あくまで心臓が止まるとか心臓に悪いことを言うだけである。

英語には、「心臓=heart」を使った言い回しがたくさんあることは、前項(10)胸で触れた。
その内の「リアルな心臓」絡みのものとして、press ~ to one's heart=〜を胸に抱きしめる、というものがある。(肺と心臓がある)胸に抱くと言わずに、心臓に向けて押しつけると言う。英米人にとって心臓が特別な器官であることを示す一例だ。


次に「ヴァーチャルな心臓」をどうするという動作、どうしたという状態をメタファー使いする、どちらかというと抽象的な表現内容の言い回し(<仮想隠喩系>)を見ていこう。

身体動作なり身体状態を無意識的な情動反応ではなくて、意識的に感情表現としてする場合ほど文化的な個性が介在していく。そして身体メタファーはよりヴァーチャルに、表現内容はより抽象的になっていく。
「心臓にけがはえている」の毛がはえている心臓は「ヴァーチャルな心臓」であるが、日本語の言い回しはそれくらいだ。

中国語の「バーチャルな心脏」の言い回しは、「心脏」で日本語でも言う「心臓部」を表現するくらいだ。(这里可以说是发电站的心脏。)

注目すべきは、英語の心を意味する「heart」は抽象的な仮想としての「ヴァーチャルな心臓」であり、英語にはこの「heart」を使ったまざまな情緒性を表現する慣用句がたくさんあることだ。

brake heart=失恋する
tender heart=やさしい心
from the bottom of one's heart=心の底から
with a light heart=心も軽く
young at heart=気持ちは若い
search the(one's)heart=内省する
などなど。

どうも、英米人にとって「心臓=heart」は心の所在であり、特別に象徴的な器官であると言えよう。
日本語の身体語慣用句の特徴を中国語から探る(11)心臓_e0030765_14371874.jpg


一方、日本人にとって心の所在は「胸」や「腹」である。
「胸」は呼吸器であり呼気を媒介に外界と連絡する訳で心の内容もそういう外界との意識的な連絡可能性の高いものと言える。
これと対照的に、「腹」は胃腸などの消化器や心身が相関する気脈の要である丹田があり内界と連絡する訳で心の内容もそういう内界との無意識的な連絡可能性の高いものと言える。
ちなみに、腑に落ちる、腑に落ちないの「腑」は「はらわた」「臓腑」のことである。 「腑」は「考え」や「心」が宿るところと 考えられて「心」「心の底」といった意味があるため、「人の意見などが心に入ってこない( 納得できない)」という意味で、「腑に落ちない」となった。
「腑に落ちた」という言い方は、一般的に「頭」で理屈として表層は理解できても、「心」で納得として本質を把握できていないもどかしさがある場合に、そういう身体感覚が解消してスッキリするという「身体感覚をともなった情緒性」を含意している。

「腑に落ちる」は、中国語では一般的に「可以接受」「可以理解」「终于明白」などと訳されるが、そうした訳語では「身体感覚をともなった情緒性」をまったく含意されない。
「腑に落ちる」は、英語では一般的に「to understand」「I get it」「(It) Makes sense」「sink into the mind」などと訳されるが、そうした訳語では「身体感覚をともなった情緒性」をまったく含意されない。「feel comfortable with」 とも訳され、この場合、快適という感覚が表現されるが逆に理解ゆえの快適という文脈が希薄になる。
以上のような訳語でも問題がないのは、中国人や米英人が日本人のようには「身体感覚をともなった情緒性」に認知表現の重心をおいていないためと考えられる。

日本語の辞書においても、「胸づもり」と「腹づもり」の意味はイコールでともに「だいたいの予定や計画」とされる。
それは辞書というものが明示知の体系化をするものだからだろう。
しかし、明示知的には同じでも、暗黙知や身体知が含意される可能性に着目すれば両者には差異があるのは明らかだ。
身体語慣用句の意味のネットワークがあって隣接する身体語慣用句からの連想や関連づけによって、「胸」の慣用句と「腹」の慣用句では自ずと話者が含意させ聞き手が言外に汲み取る暗黙知や身体知は違ってくる。
「胸づもり」は「胸算用」「胸三寸」「胸の内を打ち明ける」などに隣接し、変更可能性が高く、隠蔽度合いが低い。
「腹づもり」は「腹をくくる」「腹を割って話す」などに隣接し、変更可能性が低く、隠蔽度合いが高い。
日本語を母語とする日本人はこうした身体語慣用句の意味のネットワークにおいて、話者の表情や態度、発話の声色や語気などで暗黙知や身体知を表現したり認知したりしている。
そういう前提があるからこそ、私たちはある時は「胸づもり」を使いある時は「腹づもり」を使う。あるいは話者が「腹づもり」でなく「胸づもり」を使う前提を、あるいは「胸づもり」でなく「腹づもり」を使う前提を推量する。

そのような高コンテクストな対話でなければ、「だいたいの予定」「だいたいの計画」という低コンテクストな言葉を使えばいい訳である。
ここに、日本人同士の対話がその高コンテクスト性に重心をおいている、ということがあり、
それこそが、米英人同士の対話や中国人同士の対話がその低コンテクスト性に重心をおいている、ということとの違いとしての根源的な特徴がある。
そして、日本人が重心をおく高コンテクスト性(文脈依存性の高さ)の中心テーマが、意識的にか無意識的にか「身体感覚をともなった情緒性」「情緒性をともなった身体感覚(態度)」なのである




日本語独特の「心臓」を使った言い回しは、「心臓に毛がはえている」である。
このマンガのような慣用句についても、
(3) 目 で「目を三角にする」「目に入れてもいたくない」「目が無い」「目からウロコが落ちる」を検討した際の結論を確認できる。

つまり、
「身体絡みのオーバーな仮想を慣用句に取り入れること自体が、日本語ならではの文化的個性」
であり、
「身体語を使った言い回しだからこそ、私たちはその仮想を視覚的にイメージできかつ身体感覚をもってリアルに実感できる。
 そうまでして私たち日本人同士は無意識裡に<身体感覚をともなった情緒性>を交換しようとしている」。
なぜなら、
「リアル、ヴァーチャル含めて<身体感覚をともなった情緒性>こそが日本人にとってのリアリティの中核であり続けてきている」
からだ。



「(12)腰」
http://conceptos.exblog.jp/24834826/
へつづく。
by cpt-opensource | 2016-01-04 18:42 | 発想を個性化する日本語論


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