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日本語の身体語慣用句の特徴を中国語から探る(8)首

「(7)口 」
http://conceptos.exblog.jp/24751112/
からつづく。



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首(脖子bo2zi0)

37.首になる    被解雇(bei4jie3gu4) 
          被炒鱿鱼(bei4chao3you2yu2)=スルメイカに炒められる
38.首がまわらない 被债务(bei4zhai4wu4)压得(ya1de0)喘不过气来
           (chuan3bu0guo4qi4lai2)
          =借金で圧倒されて喘いで息ができない
39.首をながくする 翘首(qiao2shou3)等待(deng3dai4)=首をもたげて待つ




まずは、「リアルな首」をどうするという動作、どうしたという状態をメトニミー使いする言い回し(<現実換喩系>)を考える。
すると最初に気がつくのは日本語の「首」は首を含めた頭部全体をさす場合があることだ。
大将の首をとる、晒し首の「首」である。
そして、大将の首を晒すこと自体が、敵に勝利したことのメトニミー(部分で全体を比喩するシネクドキ)になっている。
話はまわりくどいが、このことが前提になって、次のようなメタファー使いの言い回し(<仮想隠喩系>)が展開している。

「クビになる」の「首」はそもそもは「リアルな首」だが、打ち首になること、首を斬られることがメタファーになって解雇されることを意味するようになった。そして「クビ」一語で解雇を意味するようになった。
この「クビ」は抽象的な概念の意味するから「リアルな首」とは言えず、メタファーとしての「ヴァーチャルな首」ということになる。

中国語にも「脑袋搬家nao3dai4ban1jia1」という言い回しがある。引っ越し可能な「ヴァーチャルな首」である頭「脑袋」、その引っ越しという仮想がメタファーになって、打ち首になること、首をはねられて死ぬことを意味する。
そこまでの展開は「クビ」と重なるが、それが「クビ」のように解雇されることや解雇を意味するようにはならなかった。
どうも「クビになる」そして「クビ」は、日本の戦や処刑から派生してその文化的個性を反映した日本語ならではの表現と言えそうだ。

つまり「クビになる」そして「クビ」は、漢語の「解雇」にはない「情緒性をともなった身体感覚」を濃厚に含意していて、それは日本の戦や処刑に由来すると考えられる。
具体的には、こういうことだ。

アメリカの映画やドラマを見ていると、社長でなくてもミドルマネジメント以上の管理職が部下に「You're fired.」と言えば部下は解雇される。
日本の会社では、仮に管理職が部下に「お前はクビだ!」と叫んでも、本人がそれに応じなければ会社に留まることができる。しか会社や職場では、ちょうど「晒し首」のように恥をさらすような気まずさを強いられることになる。
「You're fired.」と言われたアメリカ人は、腹が立ったり、残念に思ったり、上司を呪ったりはする。いったん家に帰宅して銃をもって乱射しに帰ってくる奴もいる。だが恥をさらすような気まずさを感じる者はいない。無論、雇用システムが違うのだから、気まずくなくても留まることはできない。

日本の会社の場合、窓際族とか、肩叩きとか、追い出し部屋とかで、希望退職に応じなかった者を気まずくさせる圧迫システムが充実している。それは言わば「晒し首」の制度である。
リストラ候補者の選択肢には、「晒し首」になって会社に留まるか、ならずに会社を去るかしかない。

敗軍の将の選択肢は、
敵につかまって首を打たれて「晒し首」になるか、
そうならないように自刃して介錯人に首を切ってもらって首を隠蔽するか、
そのどちらかだった。
後者の自刃が、希望退職に潔く応じて会社を去ることに相当する。

大手の一流企業ほど、転職の目処のつかないにも関わらずリストラに反対せず文句の一つも口にしないで希望退職に応じる人が多い。彼らは会社に従順というよりも、「世間」に対する諦観の境地にあり、せめて潔くと思っているように感じる。
それは、長年勤めた会社という「世間」での自分の位置づけである「分際」をアイデンティティとして守ることになる。
リストラ圧力に潔く応じた人は◯◯出身者として、定年まで勤め上げた◯◯OBと同等の立場で彼らの「世間」に帰属しつづける。そういう人間模様をよく見受ける。圧迫システムに忍耐し続けた人や会社のリストラ方針に反対して波風を立てた人はその「世間」に本人も馴染めないし「世間」の方も受け入れない。あと、リストラ圧力の有無に関係なく自分の意志で独立したり転職した人も、この出身者の「世間」に近寄らないし「世間」の方も呼び寄せない。そこには「世間」の構成員としての基準が某かの均質性についての暗黙の了解としてあるようだ。会社によって傾向や程度の違いはあっても、総じてアメリカの会社にも中国の会社にもない人間模様であることは確かだ。

日本語の「クビになる」そして「クビ」は、以上のような日本ならではの経路と背景から、「解雇」にはない「身体感覚をともなった情緒性」を含意するようになり今も濃厚に含意している。



当然、「首」は頸部だけをさすことがある。
たとえば「首がまわらない」である。お金が足りなくて余裕がなくなる様を意味する。

この語源は定かではない。
思うに、<現実換喩系><仮想隠喩系>の可能性がある。
前者は、
整体師の常識では、精神的に追い込まれていると首に異常が出現する、という。だから、借金苦に喘ぐ人が実際に首がまわらなくなることがあり、そうした部分で全体を比喩するシネクドキ(提喩)が発生した
という可能性である。
後者は、
首がまわらなくなる症状の人は、回そうと思えば回るのだが、顔の向きを上下左右のどちらかにちょっと変えただけでも激痛がする。それでその方向に首を回わしたり傾けたりできない、ということがある。上下左右どちらにも少しも向けられないという、まるで交通事故でむち打ち症になり頸椎固定シーネをした人のようになることはまず無い。
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このような言わば漫画のような極端な状態を仮想して、それを、借金苦に喘ぐ人がにっちもさっちも行かない状態との類似性から、それを比喩するメタファー(隠喩)が発生した、
という可能性である。

中国語にはこれと似通った身体語慣用句が見当たらないが、英語には「be up the ears in debt」=耳まで借金づけ、という負けず劣らずきつい借金苦状態を表現する身体語慣用句がある。
「首がまわらない」も「耳まで◯◯づけ」も、リアルな身体部位の状態表現によって、追いつめられた「身体感覚をともなった情緒性」を含意している。


英語には、「be sticking one's neck」=首などを抱き合っていちゃつく、という言い回しがある。これはリアルな具体的な行為を表現するのであって比喩ではないが、日本人の中には日本語の「首ったけ」を連想する人もいるだろう。
「首ったけ」とは、物事に深く心を奪われ、夢中になっているさまであり、特に近代以降、異性にすっかり惚れ込み、夢中になることを意味した。
しかしその語源は「首丈(くびたけ)」、足元から首までの高さのことで、「首までどっぷり浸かる」ということから、はまり込んだり夢中になる様を意味するようになった。
状態的には前述の英語の「be up the years in debt」と身体感覚は同じだが、借金なのか色恋なのかでずいぶんと情緒性は異なってくる。

ここで私が指摘しておきたいのは、
母国語を話す一般庶民は言語学者でも国語の先生でもない、
いちいち語源に照らして言葉を使っている訳ではない、
という当たり前のことである。
語源からすれば誤解でしかない連想も一般庶民の造語感覚において重要かつ有効に働く。

何事かにはまることを意味していた「首ったけ」が、近代以降に男女の色恋のことに限定された、という。この語義の限定も一般庶民の造語感覚だった。
さらに「首ったけ」の語感に日本人が「好きな相手の方だけに首を向ける」とか「好きな相手の首にまとわりつく」といった連想を誘われたとすれば、それはそれで実質的な語義となっていった。
一般庶民は、特に若い人ほど語源の「首丈」論を知らずに使っているのだから、連想の方が語感に反映するしかないのである。


「首をながくする」についても、「首がまわらない」の解釈と同じように<仮想隠喩系><現実換喩系>の両方の可能性が考えられる。
前者は、
長くなる首は現実にはありえない。長くなる首とそれを長くすることはすべて漫画的な仮想である。
その仮想が、何かの到来を今か今かと待ち望む人の様子との類似性を捉えてそのメタファーとなった
という可能性である。
後者は、
実際に何かの到来を今か今かと待ち望む人が、たとえば道に立ち背伸びをして遠くを望むとか、何かというと壁にかかった日めくりをみて一日千秋の思いに浸るとかで、実際に首をもたげて待つ仕草をして、その仕草という部分で、何かの到来を今か今かと待ち望むという全体を比喩するシネクドキ(メトニミー)となった
という可能性である。

中国語にも「翘首等待」=首をもたげて待つという「首」を用いた身体語慣用句がある。
首をもたげるのはリアルであり漫画的仮想ではないから、何かの到来をまだかまだかと待つ身体状態がメトニミーとなり、その「身体感覚をともなった情緒性」を含意するようになったと考えられる。


「首をつっこむ」の「首」は、いろいろな状況にじっさいにつっこむ「首」がある訳ではないから、「ヴァーチャルな首」と考えられる。
面白いことに、英語でも「be up to the one's neck in(with)~」=(仕事などに)深入りしている、という「首」を用いた身体語慣用句がある。
どうも人類普遍の身体語の比喩の連鎖として、「目」を向ける→「顔」を出す→「頭」だけつっこむ→「首」までつっこむ、でコミットメントの度合いが表現されているようだ。
「首」までつっこむと、容易に「頭」が抜けなくなる、ということで、深入り、になるのだろう。
このように考えると、
「首」までつっこんで「頭」が抜けなくなる、そういう漫画的な仮想をして、その仮想が、深入りのコミットメントとの類似性を捉えてメタファーとなった
という<仮想隠喩系>の可能性が高い。


また、英語には「brake one's neck」=力いぱい努力する、という「首」を用いた身体語慣用句がある。
頸部の骨を折るということで、折るを切るに置き換えれば首を切る「打ち首」と重なるが、ニュアンスはそのような破壊的なものではなくて創造的である。むしろ、日本語の「骨を折る」に通じるニュアンスである。
私たちが「お骨折り戴いてありがとうございました」と言っているあの骨は、どこの骨なのか、と考えたことはなかったが、心身の疲れが一番出る首の骨なのかも知れない。


以上ここでも、「身体感覚をともなった情緒性」の表現は、日本語の身体語慣用句に多いが、個別具体的な言い回しが日本語独特とは言えないことが確認される。
日本語の身体語慣用句ならではの特徴は、個別具体的な言い回しにではなくて、メトニミーやメタファーの網の目がどのような比喩の連載としてネットワークしているか、それがいかに日本文化ならではの特徴を背景としているかという全体論に求めるしかない、ということが確認される。

こうした観点を踏まえると、やはり
日本語ならではの「首」を用いた身体語慣用句の特徴は、日本語の「首」は首を含めた頭部全体をさす場合がある、ということ
と言える。

「首をそろえる」=関係者全員が集まること
         これは顔ぶれが揃うことであり実質的には「頭」をさす
「首を縱に振る」=承諾すること
         実際に縦に振れるのは「頭」である
「首を横に振る」=承諾しないこと
         実際に横に振れるのは「頭」である
「首をかしげる」=納得がいかず不審に思うこと
         実際に傾ぐのは「頭」である。
         「首」から傾げるのは耳に水が入った時くらいだ

「頭」には、
上から、髪、額、眉毛、眉間、目、鼻、口、歯、耳、頬、顎があり、
その下に首、喉が続く。
これを比喩形式と照らして整理するとおおよそこうなる。

①認識器官である目、鼻、口、耳は、別格の身体語であり、主要な<仮想隠喩系>の身体語慣用句に用いられていることが多い。
②能動的な器官である歯も、主要な比喩的な身体語慣用句に用いられている。
③認識器官でも能動的な器官でもない髪、額、眉毛、眉間、頬、顎は、そのリアルな様子が<現実換喩系>の身体語慣用句に用いられていることが多い。
そして
①②③の身体部位を総合するものとして「顔」や「面」がある。
この「顔」や「面」を用いる身体語慣用句は、「顔」の表情や動きをともなう動作や状態を表現する。
そして
「頭」を支える「首」を用いる身体語慣用句は、「顔」では表現できない姿勢や態度をともなう動作や状態を表現する。
そういう役割分担があるように思う。

たとえば「首を縦に振る」は、動作としては「うなずく(うなづく)」=うなじをつくと同じである。
そして「うなだれる」(状態)のうな、「うながす」(言動)のうなも「うなじ」からの展開である。
「うなじ」は髪の生え際で、「頭」ではなく「首」の後部をさす。
「顔」では表現できない姿勢や態度をともなう動作や状態を表現している。

たとえば「首を長くする」は何かを待ちこがれることを意味するが、これも「顔」では表現できない姿勢や態度をともなう動作や状態を表現している。
「首」の中の「喉」を用いた身体語慣用句に「喉から手がでる」がある。欲しいと思う気持ちが抑えかねるほどであることの比喩である。これも「顔」では表現できない姿勢や態度をともなう動作や状態を表現している。

日本語の場合、「首」が「頭」も含めてさすことがある、ということは、「顔」の表情に出るだけの事柄を、「顔」の表情に出ないないしは出さない姿勢や態度が包み込む、そんな集合関係の有り方を重視して前提していると考えられる。

<情>は、心理学的には情動感情に分類される。
情動は、咄嗟の無意識的な身体反応をともなうもので、ある意味で動物的な人類普遍のものである。
感情は、考からのフィードバックで変容するもので、喜怒哀楽そのものは人類普遍だが、何に対してどのように喜怒哀楽するかには文化差や個人差がある。
ここで、
「頭」の前面の「顔」の表情で感情が表現される一方、
「首」は伸ばすか傾げるくらいしか変化をつけられないが、「首」をどうするという動作、「首」がどうしたという状態で情動無意識的な身体反応が表現される
と考えられる。

たとえば「首がまわらない」借金苦で抱く情緒性は、喜怒哀楽の哀の感情にとどまらない。借金取りに責められたり夜逃げをする不安や恐怖をも含む。これは感情というより、動物が捕食されそうになって逃げる時に抱くものと近い情動と言える。
あるいは、会社を「クビになる」リストラ圧力に抱く情緒性は、喜怒哀楽の怒哀の感情にとどまらない。長く帰属した「世間」である会社を去ることは、動物が群れから離れて孤立する時に抱くものと近い情動かも知れない。

「顔」の表情に出ないないしは出さない姿勢や態度、というと強い意志<意>によるコントロールを想起しがちだ。確かに、そのような能動的で力強い姿勢や態度の場合もあろう。しかし、それ以上に、よほどの人間でなければ意志ではコントロールできない情動無意識的な身体反応という、受動的に力強く強いられる姿勢や態度の場合がある。
「首」ないし「クビ」絡みの身体語慣用句が表現するのは、能動的、受動的、両極のはっきりした力強い姿勢や態度のように思われる。

それは人間が受動的に授かった生命力を能動的に発揮するようになるかならないかの分岐点が、赤ん坊の「首がすわる」ということであることと関係しているのかも知れない。
仮に「首」がすわらなくても、赤ん坊の「頭」は発達し感情による判断は可能になっていく。
しかし「首」がすわらなくては、赤ん坊の主体性が発達しない。
「首のすわり」とは、赤ん坊が首に力が入らない状態を脱した自分の首をコントロールできることである。人間の主体性の起点である。死ぬまで主体性の根源でありつづける。「頭」が発達した人間ならではのことで、その意味で本能的、身体的ではあるが、動物的とまでは言えない。あくまで人間としての根源的なことである。

ざっくり言って、
「顔」の表情が、人間同士の世界〜感情の世界
「首」から下の能力や生理が、動物と同じ世界〜身体反応情動の世界とすれば、
「首」はこの両者を受動的にか能動的にかつなぐ、あるいは受動的にか能動的にか切り離す境界域
ということになる。

日本語ならではの「首」を用いた身体語慣用句の特徴は、日本語の「首」は首を含めた頭部全体をさす場合がある
ということは、
この境界域としての「首」の有り方を、「頭」や「面」よりも、「胸」や「腹」と連絡する「首」や「喉」の方に価値をおいて捉えているということである。
「首」や「喉」の身体語慣用句が特に多い訳でも多用する訳でもないが、「首」が「頭」をさすことがあるという日本語ならではの特徴がそれを物語っている。




「(9)肩 」
http://conceptos.exblog.jp/24758708/
へつづく。
by cpt-opensource | 2015-12-10 11:55 | 発想を個性化する日本語論


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