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日本語の身体語慣用句の特徴を中国語から探る(5) 鼻

「(4) 顔」
http://conceptos.exblog.jp/24739717/
からつづく。



鼻(鼻子)

22.鼻がたかい 引以为荣(yin3yi3wei2rong2)=もって光栄とする 
        感到骄傲(gan3dao4jiao1ao4)=誇りに思う
23.鼻にかける 炫耀(xuan4yao4)=ひけらかす、見せびらかす
24.鼻をあかす 出其不意(chu1qi2bu4yi4)=不意を突く、意表を突く 
        先发制人(xian1fa1zhi4ren2),令对方感到惊奇(ling4dui4fang1gan3dao4jing1qi2)。
        =機先を制して、相手に意外に思わせる



「リアルな鼻」をどうするという動作、どうしたという状態をメトニミー使いする言い回し(<現実換喩系>)において、日本語と中国語で同じか似通っているものを探して見当たるのは、
「鼻を突き合わす」で「鼻子bi2zi碰peng4鼻子」
「鼻が曲がる」が「恶臭e4chou4扑鼻pu1bi2」(扑=僕は殴るの意味)
くらいだ。
「鼻の下を長くする」は男の普遍的な情動反応だからありそうだが、
中国語では「对女人垂涎三尺chui2xian2san1chi3」、涎を三尺約1メートル垂らす、と言う。
そこまでするかぁ?と突っ込みたくなるが<現実換喩系>であることは同じだ。
中国人の男の涎に比べれば日本人の男が鼻の下を数ミリ伸ばす反応は実に奥床しい。
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では、抽象的な何かを見立てる「ヴァーチャルな鼻」のメタファー使い(<仮想隠喩系>)はどうだろうか。

日本語の場合、
「鼻がきく」「鼻につく」のように、「鼻」を嗅覚的な認識能力に見立てることがある。
「鼻が高い」「鼻をあかす」「鼻を折る」のように、「鼻」を自己満足的な心理状態に見立てることがある。「あいつは天狗になっている」の天狗の鼻に隣接する。
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中国語の場合、
「他把这事说得有鼻子有眼的」=彼はそれをいかにも本当らしく話した
のような、目と鼻があることが本当らしいことにつながる意味をもつケース(目で見て鼻で嗅いだかのような、ということで、まるでそこに居合わせたかのようなという意味か)や、
「不要只顾zhi3gu4鼻子底下di3xia4的小事」=目先のつまらないことにばかり目を奪われていてはいけない
「鼻子底下就是路」
のような、鼻の下が日本語でいう目先や足元を意味するケースを指摘できるくらいで、日本語のような多様多彩さはない。
当然、以上のような日本語の鼻の言い回しに似通ったものも少ない。
(ただし、以上のような日本語の鼻の言い回しに似通ったものは、日本語の身体語慣用句と同じく<身体感覚をともなった情緒性>や<情緒性をともなった新体感覚=態度>を含意していることが注目される。
 「有鼻子有眼(儿)」は、皮肉を込めて言う場合が多い。
 「鼻子底下」は話の文脈によって意味が軽卒な目先にも着実な足元にもなって話者の情緒的なモダリティが表現される。


ここで、思い出すのが前項(3)で検討した「目」「眼睛」でありその多用である。
「鼻がきく」ことの意味に近しい「眼尖(yan3jian1)」=目がきく、目ざとい
「鼻につく」ことの意味に近しい「刺目(ci4mu4)」「刺眼(ci4yan3)」=(まぶしい、まばゆい以外の意として)目ざわりである
などだ。
つまり、
視覚的な認識能力のメタファーとしての「目」は日本語にとっても中国語にとっても重要かつ多用されるが、
嗅覚的な認識能力のメタファーとしての「鼻」は日本語が重視多用するほどには中国語はしない。

想像するに、これにはすべての大本の土台である気候風土の違いが反映しているのではなかろうか。
五感の器官は、認識能力と認識主体と認識成果のメタファーになりやすい。
そしてその際、大本の土台として、生活文化を育む気候風土の影響を受けると考えて自然である。


一方で、日中でまったく同じに抽象的な「ヴァーチャルな鼻」が認識能力と関係ない概念を意味するメタファー使いをしているケースもある。
それは、「鼻(はな)」と「鼻子」がともに先端や端緒を意味するケースである。
「出鼻をくじく」
「一有什么事儿就拿他当鼻子头(なにかあるといつでも<まっ先に>彼をやり玉にあげる)」
などである。
大和言葉の「はな」は、鼻でもあるが、端でもあった。そして空間的な端だけでなく、時間的な端も意味した。

「鼻(はな)」「鼻子」が先端や端緒を意味するのは、どうしてだろうか。
まず、考えられるのが鼻が人間や動物の最前衛にあるということから、空間的な先端のメタファーになった。これは具体的でメトニミー経由でそうなったと考えられ分かりやすい。
では、どうして時間的な端緒のメタファーになったのか。抽象的な時間の概念をもっている私たちは当然のように思ってしまうが、原初のプリミティブな<部族人的な心性>は具体的にどう捉えたのかは明らかではない。

私は、認識の主要器官としての具体的な性質が決定的に関与していると思う。
人間や動物が最初に物事を認識をする五感が視覚と嗅覚である、ということに着目する。
そして、
空間的には視角の方が嗅覚よりも圧倒的に遠くを認識できるのに対して、
時間的には嗅覚の方が視角よりも可能性としての先々や済んだことを認識できる
ということに着目する。
たとえば、集中豪雨で山が土砂崩れするような場合、山の景観は変わらない段階で異様な臭いがするという。
たとえば、見た目には穏当な表情や態度である者が刺客である場合、武人は殺気でそれと察したという。この殺気の察知には微妙な体臭を無意識裡に嗅ぎ取るということも含まれたのかも知れない。
たとえば、警察犬は犯人が逃走した経路を鋭い嗅覚で追跡する。人間は犬には及ばぬが、私たちも残り香によって今まで誰がいたかが分かることがある。

視覚が理性という人間的認識に直結する対して、
嗅覚は「勘」という動物的認識に直結する。

視覚的認識は<社会人的な心性>において特に重視されるようになっていったのに対して、
嗅覚的認識は<部族人的な心性>において特に重視された

私は、<部族人的な心性>をベースに温存して<社会人的な心性>を形成してきた日本人は、このような嗅覚的認識の重視を温存したと考える。





「目」は視覚ではるか遠方の前(さき)をまで察知する。
「鼻」は嗅覚で風を便りにこれから来る先(さき)の状況を察知する。


ちなみに目鼻がつくの「目鼻」は「物事の輪郭やだいたいの結末」を意味する。
しかし、物事の空間的な全体像であれば、なぜ上から下までという意味で「頭」と「足」を使わなかったのだろうか。物事の時間的な全体像であれば、なぜ前から後までという意味で「顔」と「尻」を使わなかっただろうか。それは、「頭」「足」「顔」「尻」が認識器官ではないからだ。
視覚的認識器官の「目」で「物事の輪郭」を察知し、嗅覚的認識器官の「鼻」で「物事の結末を予測する」、この2つによって空間的な全体像と時間的な全体像を把握するということだった、と考えられる。

「目」は空間軸に特段の認識能力を発揮し、
「鼻」は時間軸に特段の認識能力を発揮する

ということに今更ながら気づく。

当たり前だが、未来と過去のことは目には見えない。テレビも写真もなく絵もトーテムのシンボルくらいしか描かなかった古に、目で見るのは目前の現在だけだった。
時間軸である天候の変化については、視覚的な予兆を「目」で捉えて予測するが、それは予兆についての知識と思考を前提とし、人間の知性がかなり発達してからのことである。また現代でも、気象の知識が無い者には予測という思考はできない。風が吹き始めたり雨が降り始めればそれを聴覚的に「耳」が、触覚的に「肌」が捉えるがそれは予測ではなく一早い察知に過ぎない。
予兆についての知識がなくても、明らかな天候変化の始まる前に、時間軸で前倒しで察知する認識能力はあった。嗅覚的な変化を「鼻」である。
原始の自然環境では、気候変化にまず自然が即応する。すると環境の臭いが変化する。それを人間の嗅覚が動物的に無意識裡に捉える。やがて予兆についての知識を踏まえた知性的な判断という予測をするようになっても、最初のとっかかりは「鼻」が自然環境の嗅覚的な変化を捉えることだった公算が高い。

私は、日本人はこのような人類普遍の<部族人的な心性>をベースに温存して、独特に<社会人的な心性>を形成してきた、と考える。
それは現代の日本人の感受性においても自然体で継承されている。ただ私たち自身が、それをそのようなものとしては認識していないだけなのである。

たとえば、自然な素材感を活かす日本食である。
見た目をシンプルにするのは、素材の新鮮さと安全性を認識する能力として視覚よりも嗅覚を重視してきたため、と解釈することもできる。
その点は、自然な素材感をどう加工するかに力点があるフランス料理や中華料理とは明らかに一線を画している。

たとえば、自然の草花や草木をシンプルに活かす生け花や日本庭園である。
私たちは視覚に囚われてしまうが、ひょっとすると視覚よりも嗅覚を重視して季節の予兆となるシンボリックな草花草木の香りを際立たせることが考え抜かれてきたのかも知れない。
中国の後宮では王妃のお気に入りの香りを楽しむべく花が飾られた。欧米のフラワーアレンジメントは視覚を重視し嗅覚的な調和は後回しにされるの感がある。
欧州のピクチャレスク庭園は絵画のように視覚と知性に訴える左右対称を誇った。これに対して、日本の回遊式庭園は回遊の物語性という時間展開を工夫した。私たちは回遊しながら光景の変化に感動するが、ほんとうの日本庭園の鑑賞の奥義は通奏低音である香りの変化を味わうことにあったのかも知れない。


時間軸で「鼻がきく」ことと、
空間軸で「眼尖」=目がきく、目ざといこととは、
今、身近なことについての状況判断では密着して総合判断に至りがちだ。
一方、視線の届かない遠方のことと先々のことすでに済んだことについての状況判断では、視覚はお手上げになる。視覚器官の認識だけで分かることには限界がある。
今、身近なことについての状況判断でも、嗅覚は時間軸を分担する。たとえば浮気をして帰宅した旦那は奥さんの「目」は誤摩化せても、奥さんの「鼻」は誤摩化せない。鋭い嗅覚で残り香をたよりに過去に時間軸を遡る。あるいは優れた武人が相手の殺気を感じ取るように、無意識的に朝の出勤時の旦那の体臭から直感的に浮っついた気を嗅ぎ取るのかも知れない。


たとえば、
「鼻につく」=人の振る舞いや物言いなどがうっとうしく感じられる

「目ざわり」=見ると不愉快になること、またはそのようなものやさま。
とは
何がどう違うのだろうか。
まず、「鼻につく」は人について言うが、「目ざわり」は人だけでなく物についても言う。
次に、「鼻につく」はテレビに登場する面識のない有名人についても言うが、「目ざわり」をテレビの登場人物に言うことはまずないだろう。
つまり、
人に対する物言いとしては、
「目ざわり」は、自分が属する「世間」の一員ないしは、自分が居る「場」に介入する者に対して使うのに対して、
「鼻につく」を使う対象は、自分が属する「世間」の一員に限らないし、自分が居る「場」に介入する者に限らない。
思うに、
「目ざわり」は、時間軸を今に限定するか捨象して、空間軸の特定範囲(ソトに対するウチや縄張り)を前提している。だから、対象が空間軸の特定範囲を出れば不愉快は解消する。
「鼻につく」は、空間軸を捨象して、時間軸の継続性を前提している。対象の振る舞いや物言いがうっとうしいのは、前々からだろうし今後もそうだろうと、発話時点で無自覚的に推量している。だから、テレビのある登場人物が「鼻についた」人は次に同人物をテレビで見掛けた時、即座にチャンネルを切り替えるだろう。
また、テレビのある登場人物について、最初は「鼻につかなかった」人がだんだん「鼻につく」ようになっていった、ということもあろう。これも時間軸の継続性を前提に成立している。
一方、「目ざわり」だった人が「目ざわり」でなくなるのは、その人が空間軸の特定範囲を出たからで、障害がなくなって見たいものの見たい状態が回復したということである。


部族集落から国の前身のようなものが生まれ、人の往来が盛んに成ると、遠来の人から四方山話を聞くようになる。
すると遠方のことについての状況判断において「耳」の認識能力が空間軸で発揮されるようになる。
遠方の先進地に行って見たことは地元の未来にも影響するから、「目」の認識能力が空間軸で拡大するだけでなく時間軸で発揮されるようになる。
「耳」で聞いた話を文字で記録するようになると、過去の記録を見る「目」の認識能力が時間軸で発揮されるようになる。
これは、<社会人的な心性>の形成過程であり、「耳目」の時代の到来と言えよう。
そしてその前段に<部族人的な心性>の成熟過程があり、それは「目鼻」の時代であったと言える。


<部族人的な心性>を捨象したり限界づけて<社会人的な心性>を形成してきた中国人と欧米人は、
「目鼻」の時代から「耳目の時代」に移行する。
一方、
<部族人的な心性>をベースに温存して<社会人的な心性>を形成してきた日本人は、
「目鼻」の時代から、「目鼻+耳目」の時代に移行した。


私は、文字を活用する以前の日本人の「目鼻」の時代について、ばこんな仮説を立ててしまう。

島国で海と山に挟まれた狭い平野に暮らした日本人の<社会人的な心性>と、
大陸で地平線を望む広大な大地で暮らした中国人の<社会人的な心性>には、
風土の違いから大きな質的差異があった。
そのことが、「鼻」の認識能力と認識成果が日本では重視され中国では重視されなくなったことにつながっている。

有史以前の<部族人的な心性>においてプリミティブな言語が形成される過程(「目鼻」の時代)でも、気候風土の個性が反映された。しかしそれは大枠としてアニミズムの普遍性に吸収される。人間によってどのような自然が畏怖されるかはその土地土地の気候風土によるしかないが、自然を神として崇拝するという人間と神の関係の大枠は普遍的である、ということだ。

ところが、有史以後の<社会人的な心性>において言語が文字によって社会的に形成される過程(「耳目」の時代)では、気候風土の制約をうけて個性化する社会と文化において人間同士の関係の大枠も多様化していった。

中国人の「耳目」の時代は、書き読む文化をベースとして「耳<目」の力関係で<社会人的な心性>が体系立てられていった。
一方、
日本人の「目鼻+耳目」の時代は、歌い語る文化をベースとして「鼻+耳>目」の力関係で<社会人的な心性>が体系立てられていった。

ある民族の言語は、
その民族が時間軸と空間軸をどう捉えるか、
つまりは世界観や宇宙観、社会観や人生観という根源的なパラダイムにおいて形成される。

以上の仮説も、このことを踏まえて、日本語と中国語の対照を捉えようとするものである。


私は仮説をこのように総括したい。


 山と海に挟まれた狭い空間軸において移ろいゆく時間軸を注視して
 「鼻」と「耳」の認識能力と認識成果を成熟させることに心砕いた日本人
 (大和言葉しかない時代に<社会人的な心性>の骨格が決定)

        VS

 遥か彼方まで望み行ける広い空間軸を注視して
 「目」の認識能力と認識成果を拡張することに心砕いた中国人
 (漢字文明を築いた時代に<社会人的な心性>の骨格が決定)





「(6) 歯 」

へつづく。
by cpt-opensource | 2015-12-07 04:00 | 発想を個性化する日本語論


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