「認知言語学のフロンティア ③認知意味論のアプローチ 概念化と意味の世界」
深田智 仲本康一郎 共著 研究社刊 発 (7) http://conceptos.exblog.jp/24704619/ からのつづき。 「2.4 生態心理学から見た意味研究」から 「現在までの認知言語学の主流は、ゲシュタルト心理学を基盤としたものであり、概念化の主体は、外界を眺める観察者と見なされてきた。 このような知覚観に対して、生態心理学の観点から新たに認知言語学を捉え直そうとする気運が高まっている」 ◯生態心理学の基本的な考え方 「生態心理学は、人間を含めた生物は、刺激に対する単なる受動的な反応体ではなく、能動的に環境の中を探索する活動体であると見なす。 また、そういった知覚を支える環境として、有意味に構造化された環境を想定する」 (アフォーダンス) 「生態心理学の創始者であるGibsonは、有意味に構造化された環境という発想のもと、特に、人間を含めた生物の活動に関する情報を『アフォーダンス』(affordance)と呼んでいる。 アフォーダンスとは、そこで生きる生物の行為の可能性に関する情報であり、生物の活動に制約を課するものである」 たとえば、地面や壁にできた穴は、人間がいかに穴と関わるかというアクションと相対的に規定される。 「穴があったら入りたい」と私たちが言う場合、穴は、入れるもの、という行為の可能性に関する情報を私たちに有意味に構造化している。 認知言語学に限らずデザインの世界でも語られる、こうした事例は、低コンテクストなものである。 一方、高コンテクストなものとして、日本人にとっての<世間>や、知識創造の分野で言われる、人が介在する<場>も、それに帰属する者、あるいは帰属しようとしない者にとって、有意味に構造化された環境であると捉えることができる。 否、むしろ日本人および日本語において、有史以前の<部族人的な心性>を基調とするアフォーダンスがそのまま現代にまで温存されているゆえに、そうした事態が帰結していると考えられる。 この私見に繋がるような考え方は、本書を読み進めて、認知意味論の世界でも出て来ていることを知った。 これについては、追々触れて行くことになる。 (知覚と行為のカップリング) 「アフォーダンスは、環境における生物の活動の源泉である。 生物は外界を探索することでアフォーダンスを知覚し、そうやって知覚と行為が互いの活動の源泉となって循環することを"知覚と行為のカップリング"と言う(Neisser 1976)」 鞄が重いということは、鞄を持つという活動に関わる時に始めて知覚され、重いと分かれば中の物を出すといった対処が発想される。重いと運べない、は負のアフォーダンスであり、中の物を出せる、出せば運べる、は正のアフォーダンスである。 これらのアフォーダンスは、Aが原因となってBが結果する、という因果律にのっとった普遍的な低コンテクストなものである。 一方、私たちがよく言う「住めば都」ということは、どこかに住むという活動に関わる時に始めて知覚される都のような良さ、という正のアフォーダンスである。 この場合、住んでみると、けっこうどこでも都のように馴染むものだよ、そういう事が多いよ、と同時発生を言っていることから、共時性にのっとっていると解釈できる。あるいは、馴染むから都のように感じるようになるという因果律も含んでいると考えれば、因果律と共時性が渾然一体の縁起と解釈できる。いずれにせよ、どのような所にどのように住むか、そして得られるのがどのような都のような良さなのかは特定されず、話者や聞き手とその置かれた環境に委ねられるから高コンテクストなものである。 もちろん、こうした高コンテクストなアフォーダンスの言語化は日本語に限らない。 「郷に入っては郷に従え」は、もともと中国語の「入郷随俗」であり、英語では「when in Rome, do as the Romans do」と言う。 どんな郷の何に従うのか、が対話する人間関係や話題や前後の文脈によるということが、高コンテクストな訳で、その内容に文化差が生じる。 日本人および日本語の場合、「世間」や「場」の何かなのであるが、それはローマ人の規律や郷の掟のような明文化された<社会人的な心性>を踏まえた明示知に留まらない。「空気」のような暗黙知や、「空気」を乱さない立ち居振る舞いなどの身体知といった明文化しようのない<部族人的な心性>をほとんど無自覚的に優先するところに特徴がある。 何についての「知覚と行為のカップリング」を優先的に重視するかに、民族と言語の文化差があるのである。 私は、有史以前の部族社会から今日に至る文化論を悠長に論じているようだが、それは現代の国際ビジネスで実際に発生した諸問題、つまりは現実の「世間」の社会的働きに密接に関係している。 このことは、たとえば、かつて小糸製作所の株を買い占めて話題になったアメリカ人投資家、T・ブーン氏のワシントン・ポスト紙への寄稿文にも如実に現われていた。 その中で氏は、 「日本の会社の株式は、表面上世界市場で自由に取引されているが、企業の不文律によって行われている株式の相互持ち合いという強力システムが、これらの会社の支配権を日本人の手中に留めて置く保証をしている」 「日本のある典型的な大企業では、その60から80パーセントの株式が、『系列』(安定株主の織りなすネットで、その多くはその大企業と直接仕事をしているか、あるいはその大企業の大株主と仕事をしているかのいずれかである)として知られている会社によって保有されている。小糸が典型的なケースである。 トヨタ自動車は小糸の株式の19パーセントを所有しているばかりでなく、それと同時に、製品の大半を購入している小糸最大のお客なのである。他の40パーセントは、小糸のその他のお客、銀行、保険会社、納入業者が保有している。これらの株主は、株を通してのマネー作りを期待しているのではなく、クラブのメンバーであることから生じる取引関係を通して利益を得ることを期待しているのである(筆者注:大相撲の年寄り株と同じ)」 「私は『貴方がたは、私達をオーナーと考えていないのかと聞いているのだ。我々は我々の遣り方を押し進めざるをえない。私は貴方達の習慣は分かるが、論理は理解できない』と答えた。 『我々は違ったシステムを持っている。これには時間がかかる。まず信頼関係が確立されなければならない。論理を説明するのは難しい・・・・』と松浦は応じた」 と述べている。 (参照「T・ブーン氏東京を騒がす 企業買収家 テキサス・ルールで動かぬ日本に何を学んだか」 http://www.rondan.co.jp/html/digest/ron06/pike.html) 文化論的に整理すると、 ブーン氏が当たり前とし世界で通用しているのは「交換」のルールであるのに対して、 日本の株式持ち合い企業や系列企業が最優先しているのは互恵的な「贈与」のルールなのである。 前者は客観的な明示知の体系であり世界の誰もが理解する低コンテクストにあり、 後者は主観的な暗黙知の体系であり日本人でも関係者しか分からない高コンテクストにある。 ブーン氏は、日本企業がアメリカ進出する際にアメリカの前者を尊重したことを踏まえて、自分の日本企業への経営参加についても、同様にアメリカの前者が尊重され当然受け入れられると考えていたのに対して、日本企業は日本の後者を盾に受け入れなかった。 これが対立の本質的な構造だった。 ◯言語心理学における先行研究 「従来の文法偏重の言語獲得の研究に対して、現在の語彙獲得の研究は目覚ましい発展を遂げており、語彙の意味や使用に基づく獲得のプロセスにも焦点があてられるようになってきた」 (語彙使用とアフォーダンス) 「Labovはカップ(cup)とボウル(bowl)という概念の境界を調べるなかで、これらの語彙の選択が単なる形状だけでなく、それらの道具が用いられる文脈の影響を受けることを指摘している。 例えば、容器の中にコーヒーが入っている場合、対象物はカップとして概念化される傾向があるのに対して、マッシュポテトが盛ってあるという状況ではボウルとして理解される傾向があるという。 これはカップという概念が飲むという文脈の中で理解されるのに対して、ボウルという概念は食べるという文脈の中で意味を持つことを示している」 以上のような認知表現パターンは、言語、民族を越えて普遍的である。 日本語の場合、湯のみ茶碗、ご飯茶碗と言い、もともとは飲み喰いする椀しかなかったことを想起させるが、飲む文脈、食べる文脈で分化し造語されていった原理は同じである。 そういう意味では、文化差の乏しい相対的に低コンテクストな「語彙使用のアフォーダンス」と言える。 一方、日本人および日本語には、文化差が激しく直訳不能な相対的に高コンテクストの「語彙使用のアフォーダンス」がある。 それは前項(6)http://cds190.exblog.jp/18569192/で検討した、和漢洋のどれかの言葉遣いで語感を揃えることにおいて、どれかを私たちに選択させる「語彙使用のアフォーダンス」である。 私たちは、 「飯屋で喰う」 「食堂で食事する」 「レストランでランチ」 などと、語感を揃えようと思えば揃えることができ、TPOによっては意識的に語感を揃える言葉遣いをする場合がある。 食事を提供する側(飯屋/社員食堂/フレンチレストラン)が方針として接客の言葉遣いの語感を揃えさせている、ということは多く見受けられる。 外食するというプロファイルが同じでも、そのベースが異なるために、異なる言語表現となっている訳だが、注目すべきは、 私たちが語感を揃えるにおいて、 「場」における身体性と情緒性の異なりの想定という高コンテクストな「語彙使用のアフォーダンス」を踏まえて和漢洋の言葉の使い分けをしていること、 である。 「場」にふさわしい行為の可能性に関する情報を「行為選択のアフォーダンス」と呼ぶならば、それはどの国どの民族の生活文化にも充満している。 しかし、それに即した「語彙使用のアフォーダンス」に従って和語、漢語、カタカナ英語(外来語)を使い分けする言語となると日本語だけであり、その高コンテクスト性において日本語に勝るものはない。 (語彙獲得とアフォーダンス) 「言語の概念は、最初から分節化された状態で理解されるのではなく、最初は未分化な状態で獲得される。 これは発達心理学の知見を見ても明らかであり、事物はそれだけで知覚されるのではなく、<主体–活動–対象>というアクションを基礎にした有機的な結びつきの中で理解されると考えられている」 「小林は、幼児の語彙獲得を観察するなかで、幼児は人工物の概念を獲得する前に、人工物に対してどのような操作が可能かというアフォーダンスを知覚しており、そういったアフォーダンスの知覚を支えに語彙の意味が獲得されると主張している。 例えば、人間の幼児は、ボールのような人工物に対して『投げる』『転がす』といったある種の特別な操作を行う。小林は、このような対象物に特有の操作が概念化の動機づけになるという。 このことは、『ボール』という表現が現われる前に『ポーン』という投げるアクションと結びついたオノマトペが使用されるという現象に現われている」 以上のモノを対象とする操作についての「オノマトペの獲得」は、どの国のどの国語を使う幼児においても同じ、低コンテクストのものである。 日本人の親が幼児に教える、ポイする、などだ。 一方、日本人の親が幼児に教える、バイバイ、などは、手を振る身体性と、人と別れる際の気持ちが暗黙裏に誘導されて情緒性も伴う。子供に、会った人にちゃんとこんにちはの挨拶をしなさいと教える。その際にも、お辞儀をする身体性と、人と出会う際の気持ちが暗黙裏に誘導されて情緒性を伴う。このような情緒性は誰とのどのような別れ際か、出会い頭かというその時々の条件に左右されるから、どこの国でもある低コンテクストな身体性のマナーを超えて高コンテクストなものとなる。 日本語の擬態語には、擬態する身体性ないし身体感覚だけでなく情緒性も含意するもの(=身体感覚をともなった情緒性を表現するもの)が多いことが特徴である*が、前述の挨拶と同じ学習過程を経て習得される。 (*参照: 「日本語と日本人の思考を特徴づける擬態語について(1)」http://cds190.exblog.jp/9509120/ 「日本語の擬態語と身体語の特徴についての要点復習(2)」http://cds190.exblog.jp/9978451/) 日本人の幼児の発達過程については奥深い検討が必要である。 たとえば、母親が幼児の手をとって、これから去ろうとする人に向かって振らせようとする時、母親も幼児もその相手を共に見ている。母親が幼児を抱いて手を振らせればそうなり易いが、母子が常に意識的に自分たちの視線を相手の目に向けているとなるとそこには継続する目的がある筈だ。 北山修氏の「共視論」という考え方では、抱いていない状態でも同様のことが人ではなくモノを対象にしてもあることが着目されていて、それを「平行共視」という。 ここで着目したいのは人を対象にしたケースであるが、典型事例としては、誰もが一度は似たような経験をしている、日本人ならではのパブリックスペースにおける子供の叱り方だ。 たとえば電車で落ち着かないガキがいて、その母親が注意する時、母親が側にたまたま居合わせた私を見ながら「そんなことしてるとおじさんに怒られちゃうよ」と私を引き合いに出して叱ったりする。すると、ガキも私を見て大人しくしたりする。 ここで「平行共視」が展開している。 こうした事態は、「場」や「世間」を介在させていて、欧米のような母親とガキの直接的な個人vs個人の関係ではない。母親が、文字通り重視する「場」や「世間」への視線がガキに誘導されている。 その時、母親は気まずいと感じる情緒性と表情や萎縮の身体性をガキに同調させようとしている。 このような「場」や「世間」における実地教育を反復しながら子供は語彙獲得を重ねていく。 この子供の学習パターンは血肉化して、大人になって社会人になっても「場」や「世間」の「空気」を実地に読んでは「空気」に自らの言動を即応させる。そして自然体で、身体性と情緒性を伴った「平行共視」をその構成員とともに同調させることになる。 「百聞は一見にしかず」、人は見たものが思考を大きく展開させるということは、思考を制約する訳だから、「平行共視」は、誰に教わった訳でもないのに視野におさまった人・モノ・コトについての思考ばかりを発展させていくようになる。 だからある「場」や「世間」において、たとえその構成員の思考が十人十色であるとお互いに認め合っているとしても、何についての思考か、という所で同じ「平行共視」の視野狭窄に囚われているということは往々にしてある。 これは「パラダイムの呪縛」の大本であり、意識している明示知のパラダイム以前に、それを前提させる無意識的な暗黙知のパラダイムを限界づける。 私は、ある「場」で、ある「世間」の構成員とともに「平行共視」をしていること自体が、自らの帰属を表現しそれを他の構成員からも認められる必要条件になっている、と考えている。 さらに、無意識的な暗黙知のパラダイムにおいて大きく影響している「パラダイムの呪縛」と言えば、それは発想思考が無自覚的に制約されていることを意味し、「平行共視」もほとんど無意識的なものであると考えられる。 しかし現実には、私たちは発想思考をどうするの以前に、どのような「場」においてどのような「世間」に帰属するものとして振る舞うかを選択していて、この先行において「平行共視」による身体性と情緒性の同調は極めて意識的である。 ある「場」においてある「世間」の構成員であることを周囲に顕示するために、周囲に同調して同じ何かばかりを重視する。そんな内実をもった「平行共視」をしては、その視野外の人・モノ・コトを無視・軽視するということは、日本ではごく日常的に見受けられる。 外国でもない訳ではないが、ファシズム下とか一党独裁下とかの限界状況においてであって、日本のように公園デビューの公園から学校のクラスや会社の職場といった日常茶飯事的に、つまりは「空気」のように見かける訳ではない。 私は、こうした集団的な認知表現パターンや心理的相互関係は、自分の部族のトーテムを重視し他の部族のそれを軽視する<部族人的な心性>に由来するのではないか、と思っている。 <部族人的な心性>は現代人でも人類普遍に深層心理に潜在させていて、こうした集団的な認知表現パターンや心理的相互関係は日本人に限らず幼児心理や大衆心理において、あるいは一般的な成人個人においても特定条件下で部分的に、あるいは限界的に顕在化する。 しかし日本人の場合、<部族人的な心性>はベースに温存して<社会人的な心性>を形成してきたという経緯があるため、全体的にあるいは際限なく表出し、むしろ醸成された「空気」に従うべしというプレッシャーとして社会を制約する。 「空気」の醸成というものにはいろいろな展開がある。 その象徴的な一つが政治家の演説である。 古今東西、政治家の仕事は、自分の立場や主張を政敵のそれより優位なものとすべく演説することだが、日本人の一般庶民にとって引きつけられるうまい演説とは、知性や理性に訴えるロジカルにスマートなものでは必ずしもない。情緒や身体感覚に訴えるものでなければならない。 具体的にはどういうものか。 日本人の政治家の演説の特徴は、「きっちり」「きちんと」「きっぱり」とか「しっかり」「てきぱき」「ばっさり」といった耳障りの良い擬態語を効果的に反復することだ。 たとえば政府のやってることを批判する場合は、「ぐだぐだ」「のろのろ」「ずるずる」「あやふや」「後手後手(音韻が擬態語的)」など耳障りの悪い言葉を反復してイメージ悪化を図る。 議場での政治家の答弁が分かりやすいが、答弁者と同じ立場の人たちは、答弁者がこうした擬態語を歌謡的に反復するのに呼応して、拍手や異議無しといった合いの手を入れながら、政敵に対する「平行共視」を答弁者と共有している。 政敵に対する「平行共視」はどこの国の議会でもある。どこの議場も「平行共視」のあり方によってデザインされていて、イギリス議会が議席を対面させて「平行共視」を正対させるのは特徴的だ。 しかし、議場で行われる答弁が歌謡的で、日本語に特徴的な身体性と情緒性を同時に含意する擬態語の反復によって歌謡性を盛り上げ盛り下げる(政敵側はお囃子を入れるように野次る)となると日本的と言える。 代表者が歌い、取り巻く聴衆が合いの手やお囃子を入れる、という歌謡集団のあり方はまさに部族社会の祝祭の儀礼形式である。同じ「世間」に属する者同士がそれを誇り合い、異なる「世間」に属する者同士が競い合う儀式のスタンダードに他ならない。 日本人の場合、本来、主張の合理性を因果律にのっとって競い合う低コンテクストな議論が、身体性と情緒性を強調する歌謡の集団的あり方という高コンテクストな競い合いとして展開していることが特徴なのだ。 「事物はそれだけで知覚されるのではなく、<主体–活動–対象>というアクションを基礎にした有機的な結びつきの中で理解されると考えられている」 という発達心理学の知見は、政治家の議場での答弁(活動)のような本来、論理的整合性を競うべき主張(対象)においても通用する。 演説者が聴衆を盛り上げる手法の典型は、 ①答弁者が自分の個人的体験を具体的に物語るところから説き起こす物語化 ②答弁者の自分の情緒性が「世間」の情緒性=国民感情であると力説する感情論 だ。 ①は縁起に、②は共時性にのっとっていると言える。 ともに因果律にのっとったような客観合理的な説明や証明になっていない。議場というその「場」限りの盛り上がりだ。結局、因果律にのっとっているのは多数決とその結果による決議だけになるが、それに①や②は必ずしも反映しない。 これには、日本の国会では議決において政党が所属議員に党議拘束を掛けることが関係している。アメリカ議会では党議拘束を掛けないから、議論の経過で判断を変える議員が出てくる。政党=部族ではないのである。 日本の場合は、政党=部族であって、最終的に多数決で得られる結論は誰もが分かっていて、①や②はそこに至るまでの、議場という言わば祝祭の「場」におけるお約束に過ぎない。 国会議員という国民の代表が議場という「場」でどのような対話をしているか、ということ以上にコミュニケーションの社会的働きについての民族的特徴を象徴するものはないだろう。 ◯アフォーダンスと認知意味論 (イメージ図式とアフォーダンス) 「人間の知覚や運動などの活動は、無秩序なものでなく空間的/時間的に構造化されている。 認知意味論は、そのような経験の構造を前言語的に獲得されるイメージ図式として表現し、言語の概念をそういった経験の図式(=イメージ図式)に支えられた概念構造として規定する」 そして重要なことは、 「として理解すべきである」 ということだ。 前述した議場の様子も、そもそも日本の議場はイギリスやドイツからその雛形を導入したため、当初は答弁者もなるべく欧米流を心がけた筈だ。とは言え、欧米流を知る由もなく徐々に日本型を自然発生的に育んで行き、その蓄積がいま現在に至っている。 議場での議論や議事進行には、どこの国でもその国ならではの歌謡性が残存している。中国の共産党大会は、皇帝の面前に文武百官が勢揃いした時空を反映していて、全員で同じ言葉を唱和する歌謡性はその名残かも知れない。 しかし、日本の国会、中国の共産党大会などいずれの場合も、議場での議論と議事進行の「イメージ図式は所与のものではなく、アクションの結果として環境がある構図を持った場面として立ち現われた結果として理解すべき」であり、その生なアクションという探索活動の知覚がそこでの行為の可能性に関する情報=アフォーダンスとなり、そこでの行為を制約し方向づけてきた、と言える。 日本の場合、議場での議論と議事進行の「イメージ図式」を意識的には明示知体系として英独の雛形に準じたつもりできた。しかし、生なアクションという探索活動による知覚の自然発生において、日本人が古来その<社会人的な心性>のベースとして温存してきた<部族人的な心性>が呼び覚まされ、歌謡の集団的あり方を無意識的な暗黙知体系として現出させ続けてきている、と考えられる。 以上の議場の話は、文化差が根深く出現する「イメージ図式のアフォーダンス」の高コンテクストな事例である。 認知意味論では、一般的には、以下のような、文化差が出にくい「イメージ図式のアフォーダンス」の低コンテクストな事例が検討される。 「例えば、カバンの一義的な機能は物品の運搬であるが、運搬の前にカバンにものを収納する。その時、カバンははじめて容器として立ち現われる。つまり、収納という活動の文脈と相対的に、カバンが容器として意味づけられたといってもいい。次にカバンを運ぶ段になると、カバンはすでに容器としての役割を終え、今度は荷物として意味づけられる。 このように事物の意味は、主体が携わるアクションと相対的に立ち現われる。 その際、事物のアフォーダンスが利用されることはいうまでもない。 カバンは容器や荷物になることはあるが、人間はカバンを食べ物にすることはありえない。 その他にも、アフォーダンスは文化的に制約されており、日本人はふつう犬をペットにすることはあるがそれを食べることはない」 私が若い頃は、やんちゃな高校生は人目でそれと分かる格好をしていた。彼らにとってカバンは武器だった。教科書や文房具など入れずぺったんこなのだが代わりに鉄板が入っていた。 カバンを咄嗟のときに護身具にするという反応はどこの国の人もするだろう。しかし、学生カバンという学校から強制されている持ち物を工夫して武器にするとなると日本独特である。 これは、そもそも学生服という学校から指定されている服装に応じながら、その範囲でズボンを太くしたりスカートを長くするという差別化によって逸脱性を顕示するのと同じ、高コンテクストのパラダイムにあった。 当時は、ツッパリという呼び方をした。ツッパリの学生服は学ランという呼び方をしたが、そのカスタマイズには地方差や地域差があった。京都や奈良の修学旅行先でツッパリ同士が遭遇すると、学ランの逸脱性から同じツッパリと視認しあう。眼のつけあいから喧嘩に発展することもあった。 日本のツッパリの学ランと、ニューヨークのカラーギャングのカラーファッションとは本質がまったく違っている。 カラーギャングのカラーは低コンテクストな記号であり、他者に対してあるカラーのグループの構成員であることを顕示している。 一方、日本のツッパリのカスタマイズした学ランは、一般学生に対して逸脱性を顕示することがメインで、学ランにつけた校章やもとになる学校指定の制服がどこの学校かを示しはするが、むしろ同じツッパリ同士の中での分際を示すということに力点があった。 分際相応のカスタマイズというものがあり、分不相応なカスタマイズをすれば叩かれてしまうか、舐められてしまうかする。そうはならない分相応なカスタマイズを心がける結果、学ランはツッパリとしての分際を示しあうものとなった。つまりはツッパリにはツッパリの「世間」があり、その一員であることをその「世間」の内外に示すと同時に、同じ「世間」の者同士としては「分際」を示し合う高コンテクストな記号となっていた。 つまり日本人の場合、自分の属する<世間>や居合わせる<場>を踏まえた高コンテクスト性ということが、善し悪しは別にして、独自性として一事が万事に一貫しているのである。 (カテゴリー化とアフォーダンス) 「人間の用いるカテゴリーは、アフォーダンスに支えられている。 例えば、砂・石・岩という自然物の概念は、事物の物質的な状態(筆者注:さらさらしている、ごろごろしている、ごつごつしている、といったコンセプト思考術の用語法では「モノの感覚」で把捉される概念)ではなく、(中略) 基本的には砂はつまむことを、石はつかむことを、岩はかかえることをアフォードするか、それ以上の大きさをもつ対象物(筆者注:コンセプト思考術の用語法では「モノの機能」で把捉できる概念)と見なすことができる」 「アフォーダンスに基づく言語のカテゴリー化は、人工物において端的に現れる。 というのも、すべての人工物は目的を持って制作されており、特定の行為をアフォードする(筆者注:「モノの機能」で把捉できる概念)からである。(中略) 人工物の意味は、その見かけの属性(筆者注:「モノの感覚」で把捉できる概念)よりも、道具の持つ用途(筆者注:「モノの機能」で把捉できる概念)によって理解される。 道具の用途とは、制作者によって方向づけられた意図的アフォーダンス(intentional affordance)であり、自然の中で人間が発見するものというよりも、社会的相互作用の中で文化的に学習されるものである(Tomasello 1999)」 コンセプト思考術では、「モノの機能」の概念要素を「モノ」を物理的な自然物や人工物に限定せず、機械と似たような機能をもつシステムや制度も含める。 前述の議場の議論のあり方や議事進行は「コト」ではあるが、制度やシステムという「モノ」の機能として捉えうる機械論的な側面と、制度にのっとりながらも答弁者を演者とする劇場という「コト」の意味や感覚が鬩ぎあう「場」として捉えうる人間論的な側面を併せ持っている。 その上で、 「すべての人工物は目的を持って制作されており、特定の行為をアフォードする」 「道具の用途とは、社会的相互作用の中で文化的に学習されるものである」 ということがそのまま当てはまる。 (アフォーダンスと比喩の理解) 「アフォーダンスは、人間によって人工的に生み出される以前に、自然の環境の中に埋め込まれている。(中略) 人間を含めた動物は、環境の中で活動するために、自然の地形を生物の運動と相対的に知覚し、それらを利用する傾向がある(Gibson 1979)。(中略) 以下は、抽象的な人生の困難が、物理的な行為に対する障害として概念化されたものである。ここから抽象的な状況(コンセプト思考術の用語法では「コトの意味」)は、具体的な出来事に対する対処の仕方として、次のように類型化されていることが分かる。 (2)DIFFICULTIES ARE IMPEDIMENTS OF MOTION a. {困難、問題、・・・}(=壁)にぶつかった:地形 b. {病気、災難、・・・}(=敵)におそわれた:強敵 c. {借金、責任、・・・}(=荷)を抱えている:重荷 以上は、自然の地形が物理的な行為に対する障害のメタファーになっている、ということを解説している。 私は、人間にとってもっとも身近な自然である身体が、さまざまな具体的な状況に遭遇した際の感覚(コンセプト思考術の用語法では「コトの感覚」)のメタファーになっている、ということを補足したい。 いわゆる身体語を用いた慣用句である。 そして、日本語ならではの身体語を用いた慣用句のあり方に注目したい。 身体語を用いた慣用句はどの国の言語にもあり、ある状況で誰もが抱く感覚を表現している一般的な身体語を用いた慣用句については低コンテクストなものと言える。 一方、日本語に特徴的な身体語を用いた慣用句は、身体性と情緒性を同時に含意するもの、身体感覚をともなった情緒性を表現するものであり、どんな状況に注視し集中的に表現するかについて日本人ならではの文化差が如実に現われている。 それは、話者が具体的にどのような身体性と情緒性を認知し表現するためにある身体語を用いた慣用句を使っているかは、その場に居合わせたりその場に居合わせた当事者や関係者やそれらの関係性を知らなければ把握できない。そういう高コンテクストなのものである。 情緒性には、大きく分けて2通りある。 一つは「情動(emotion)」で、無意識的に即座の身体反応を伴うもので一過的である。 身体語を用いた慣用句としては、「手に汗握る」「目の玉が飛び出す」「胸を撫でおろす」などだ。 もう1つは「感情(feeling)」で、意識的に形成され時間とともに変容しうるものである。 身体語を用いた慣用句としては、「腰を据える」「腹を括る」「白い目でみる」「後ろ指をさされる」などだ。 「情動」と「感情」の両方の情緒性と身体性を同時に含意する身体語を用いた慣用句が日本語には多く、また日本人は多用するのであるが、敢えて分けるとこういうことが言える。 身体性と「情動」を含意する身体語を用いた慣用句は、文化差の影響が薄く、前後の文脈に関係なしにそれと理解されて直訳も容易なので低コンテクストである。 一方、身体性と「感情」を含意する身体語を用いた慣用句は、前後の文脈を踏まえないと具体的に理解ができず、また、意識的に感情がいかに形成され、いかなる身体性に反映されるかに文化差があるため直訳はでき、日本語で一言で言っている内容を他言語で表現するには多くの言葉を用いなくてはならず高コンテクストである。 たとえば、 「腹を括る」を英語で言う場合、 to prepare oneself for the worst to strengthen one's resolve to accept one's fate; to prepare oneself などと言わねばならない。 ◯探索活動と言語現象 Gibsonは、 「我々は運動するために知覚するが、知覚するためには運動しなければならない」 と述べている。 (知覚の能動性と探索活動) たとえば、乳幼児を段差のあるヘリに置いた時、 「自分で動くことができない赤ん坊はその場を怖がらないが、自分でハイハイなどができるようになった乳幼児はその場を断崖(=視覚的断崖"visual cliff")と見なし、怖いと感じるようになるという(Campos et al.1970)。つまり、乳幼児は能動的に運動ができるようになってはじめて、断崖の奥行き(筆者注:深い=「モノの感覚」)を知覚したり、その場所を危険である(筆者注:「コトの感覚」)と判断するようになる。 このような知覚を成立させる知覚者の能動的な活動は「探索活動」と呼ばれ、我々は知覚に先立ち、または知覚の成立と同時に何らかの探索活動を行うことが指摘されている」 「我々はものの形を視覚によって知覚するだけでなく、触覚によって対象を指や手でなぞる(=探索する)ことによってその形を知覚することができる。 さらに、最近の研究によると、人間は物体を振ることでその重さだけでなく、かなり正確に物体の形状を知覚できることが実験的に確かめられている。(中略) さらに、事物の形状の場合、視覚や触覚だけでなく、時には聴覚も関わる状況でその形が知覚される。 このような探索活動や知覚システムの働きは、言語のカテゴリー化にも反映される」 (事物の形状とアフォーダンス) 「我々は日常生活の中で、音を聞く時に同時に出来事を聞いている(Garver 1993)。 パタンとドアが閉まる、ドサッと荷物を下ろす、パシャッと水がこぼれる時、我々は音と同時に出来事を聞いている。(中略) ものが壊れる場合も何らかの音を伴い、逆に我々は音から何かが壊れたことを知る。(中略) 日本語の破裂音(筆者注:擬音語)は次のような形で範疇化されていることになる。 ・ポキッ → 棒状のモノ ・ブチッ → 紐状のモノ ・バリッ → 板状のモノ ・ビリッ → 布状のモノ このように、ある物体の形状や材質は、主体の身体と相対的に可能な行為を特定化するだけでなく、周囲の環境と相対的にある事象を特定化する。 生態心理学の観点から言えば、こういったカテゴリーの存在により、我々は環境の中にある行為のアフォーダンスだけでなく、事象のアフォーダンスを知覚できるということになる」 「私たちは、物体を振ることで物体の形状をかなり正確に知ることができる」という話は象徴的だ。 百聞は一見に如かず、は視覚の優位性を言うが、じつは続きがある。 百見は一考にしかず(いくらたくさん見るよりも、一度考えた方がまし) 百考は一行にしかず(どんなに考えても、まず行動を起こさなければどうしようもない) 百行は一果にしかず(どんなに行動しても、一つでも成果を残さなければ意味がない) 認知論との絡みでは、 「百見は一考にしかず」と「百考は一行にしかず」が重要で、 「百見は一考にしかず」で、まずは仮説を立てて、 「百考は一行にしかず」とそれを実験し検証することの有効性を言っていると解釈するならば、 これは 「我々は知覚に先立ち、または知覚の成立と同時に何らかの探索活動を行う」に重なってくる。 探索活動を思考においてするのが一考=仮説であり、実践においてするのが一行=実験検証に他ならない。 さらに重要なのは、現場や現物における行動や行為が、思考では得られない身体知や暗黙知を獲得することではなかろうか。 「物体を振ることで物体の形状をかなり正確に知ることができる」とは、物理的な人工物に関する低コンテクストなケースである。 しかしこれと相似形のことが、「場」や「世間」のような人工物に関する高コンテクストなケースについても言える。 ある「場」や「世間」を外から眺めたり伝聞で話を聞いているだけでは分からないことが、実際にその「場」や「世間」に足を踏み入れれば分かってくる、ということである。 たとえ新しい情報や知識という明示知が手に入らなくても、あの構成員の態度や集団の様子からするとこういう類いの情報が尊重されて、こういう類いの知識はあまり尊重されない、といった暗黙知が身体知として手に入り、それで立てるべき仮説の領域や方向性が限定できるといったことが実際によくある。 限定した領域で明示知を収集し構成して仮説を立てる、そして実際にその「場」や「世間」の現実において実験してみた方が、こうした手順を踏まずに独りよがりな仮説を立てていきなり実地に検証するより効果的・効率的である。 これは、「我々は知覚に先立ち、または知覚の成立と同時に何らかの探索活動を行う」の高コンテクストなケースと言える。 (生態的自己と言語表現) ある「場」や「世間」に身を置いて知覚するのは、そこに居る他者の態度や様子だけではない。そこに身を置いた自分自身の身体反応や情緒反応でもある、というよりそれが最も直接的にかつ大量に知覚することではなかろうか。 日本語の慣用句で言うならば、あの「場」に行って「腑に落ちた」、とか、あちらの「世間」は「肌に合った」ということだ。 これは明示知についての個別具体的な合意とか賛同ということではなくて、暗黙知についての総合身体的な受容ということだと思う。こうした最も直接的で大量な知覚が、有意義な探索活動の可能性の情報というアフォーダンスをもたらす。 「従来の心理学の常識では、人間の感覚には、視覚や聴覚など、外からの情報を受容する外受容系と、痛覚や温覚、重力に対する平行感覚など、自己の状態を知る内受容系があるとされてきた。 これに対してGibson(1979)は、知覚はすべて外受容的(exterospecific)であると同時に自己受容的(propriospecific)であると言う。(中略) つまり、環境の知覚と自己の知覚は相補的な現象であるといえる。 また、このようにして知覚された自己をエコロジカル・セルフ(ecological self)という。 例えば、『今日も元気だ。タバコがうまい』という人は、タバコがうまいという外界を知覚することで、同時に自己の健康状態を知覚しているといえる(本田, 2005)。 このような自己と知覚と環境の知覚の相補性は言語にも反映され、事物の運動や変化によって、自己の運動や変化が間接的に伝達される仕組みになっている」 「日本語では(筆者注:自己の知覚による)主体的な表現と(筆者注:環境の知覚による)客体的な表現が、言語的な対立として表現される傾向があると言える。 例えば、感情表現はその典型的な場合」である。 中国語では、私が喜ぼうが太郎が喜ぼうが、我高兴、太郎高兴、なのだが、 日本語では、私はうれしい、太郎が喜んでいる、 と、 自分については体感的に感じられた状態を形容表現する一方で、 他者については外から観察された状態を動詞表現する。 「この点に関して、日本語では 自己に属する現象を表す『わがこと』と、 他者に関する現象を表す『ひとごと』という2つの言語システムがある という主張がある(渡辺 1991)」 前述した、 ある「場」や「世間」を外から眺めたり伝聞で話を聞いているだけでは分からないことが、 実際にその「場」や「世間」に足を踏み入れれば分かってくる ということは、 自己の身体性を捨象した「ひとごと」の言語システムから、 自己の身体性を動員した「わがこと」の言語システムに移行する ということでもある。 そして、 日本語に特徴的な情緒性を含意した多様多彩な身体語を用いた慣用句の多用は、後者の自己の身体性を動員した「わがこと」の言語システムにおいて顕著な有効性を発揮する のである。 (対人的自己と言語表現) 「自己は、他者との社会的な相互作用(筆者注:日本人の場合『場』や『世間』や『縁』)の中で知覚される。 これは常識的な事実のようであるが、現在の認知言語学ではこのような社会的な側面が強調されることは少ない。 言語認知学が想定する主体は、多くの場合、単独で世界を眺める"孤独な自己"(筆者注:低コンテクストな事柄を重視)であり、共同体においてコミュニケーションを通じて他者と関わる社会的存在(筆者注:高コンテクストな事柄を重視)とみなされていない」 「これに対して、生態心理学では、 事物の移動や変化に伴って知覚された自己をエコロジカル・セルフと呼ぶのと並行し、 他者への能動的な働きかけによって生じる他者の<見え>とともに知覚される自己をインターパーソナル・セルフ(interpersonal self)と呼んでいる(筆者注:<汝の汝>を問い合う日本人の『世間』、その『世間』における位置づけ『分際=自分』もこれに重なる)。 これら2つの自己は知覚的に<見え>の中に存在せず、言語的には背景化されるという特徴がある(本多、2005)」 一般的に誰かが相手と「世間」について語り合っている場合、それはその人が自分なりの位置づけを得ている筈の「世間」であるが、相手が自分なりの位置づけを得ている筈の「世間」とは大なり小なりズレがある。 では、そうした「世間」の話なしに、「自分」だけを取り出して語り合えるかというとそれはできない。なぜなら、「自分」とは想定する「世間」での位置づけ「分際」だからだ。語り合っている話題の「世間」も暗黙知ならば、話者の「分際」も暗黙知なのである。 一方、オリンピックに出場してメダルをとった日本代表となれば話はまったく違ってくる。彼らは、自分の位置づけを世界標準で獲得していて、世界における位置づけを得ている。 彼らがしているスポーツ種目もグローバルに客観的に理解される明示知であり、彼らのメダリストという位置づけも明示知なのである。 しかし、こうした事例は例外であって一般的ではない。 一般的に、明示的な環境で明示的な位置づけを得られる人々のあり方は、典型的には資産や所得をたとえばドル換算した金額による分別である。何ドル以上を金持ち、何ドル以下を貧乏人と位置づければ、どこの国の何人でも同じ尺度でグローバルに位置づけることはできる。 グローバリズムの価値観は、良くも悪くもこうした経済的な低コンテクスト性が一貫している。 一方、日本は良くも悪くも、政治、経済、生活文化などすべてにおいて高いコンテクスト性が一貫している。 その大本にあってそれを維持しているのは、私たちが日常的に使っている日本語である。 前述のインターパーソナル・セルフのような、 「対人的自己の言語的反映として呼称詞がある。 呼称詞には、大きく例えば、日本語の自称詞としては『わたし』、『おれ』、『ぼく』、『父さん』、『太郎』、『先生』、等があり、対称詞としては『あなた』、『おまえ』、『きみ』、『父さん』、『花子』、『社長』、等豊富な表現がある。 これらの呼称詞を用いる時、我々は自己と他者をカテゴリー化している。(中略) また、こういった社会的な関係は、単に維持されるだけでなく、積極的に創出されることもある。 例えば、(中略)『おれさま』や(中略)『吾輩』のような自称詞は、自分を相手よりも力のある存在として誇示する機能を持ち、相手との社会的関係を作り出すための表現と見ることができる」 つまり、 「世間」や「場」における相手との社会的関係にそって、対人的自己の言語的反映があるだけでなく、 「世間」や「場」において対人的自己の言語的反映によって、相手との社会的関係を新たに創出しようともするのである。 日本語とそのコミュニケーションの高コンテクスト性は良くも悪くも、微に入り細に入り一貫するだけでなく、変容しつつ永続的にも一貫するのである。 このことは、日本人が日本語を母語とする限り続く筈である。 私自身は、それを良い事、有意義な資源であり財産だと思っている。 ただ、画一的に世界を席巻するグローバリズムに真正面から向き合い、 また後ろ向きで閉鎖的なローカリズムに陥らないようにして、 前向きに世界の多様な異文化とともに共生し恊働してその発展の一翼を担う開放的なグローカリズムを展開していくことが重要であると考える。 そのためには、日本人自身がまず母語である日本語の特性を本質的に理解し、 日本語を「創造恊働性の活性語」として現代的に再発見し国際的に再利用していく ということが必要だと考えています。 (9) http://conceptos.exblog.jp/24704642/ につづく
by cpt-opensource
| 2015-11-29 04:00
| 発想を個性化する日本語論
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私は自分が実際に日本の企業社会でした経験から普遍的な文脈や客観的な法則を導くために雑学する雑学者です。
「コンセプト思考術」も、フリーランスの構想企画者として複数業界で複数大手の仕事をした30代までの体験に基づき40代にノウハウ化、企業や自治体に研修したものです。 40代、様々なプロジェクトのプロデューサーとして集団や組織と関わった経験から、日本人ならではの発想思考や集団独創を肌身で感じとり、50代、それについての仮説を検証すべく科学や歴史を雑学してきました。 還暦になる今年を期に、これも本ブログで整理していきたいと思います。 20世紀後半、戦後日本の企業社会そしてマーケティングの実際はどんなものであったか、一般的に確かに息づいていた日本型経営や日本人ならではの集団独創とは実際の現場としてはどんなものであったか、ご興味ご関心のある方におつきあいいただければ幸いです。/ その他のジャンル
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