「認知言語学のフロンティア ③認知意味論のアプローチ 概念化と意味の世界」
深田智 仲本康一郎 共著 研究社刊 発 (3) http://conceptos.exblog.jp/24683908/ からのつづき。 「1.3.4 認知能力と概念化」から 「認知言語学のアプローチは、次のような認知能力(cognitive abilities)の存在を明らかにしてきている: (ⅰ)人間が生まれながらにして持つ基本的経験に関する能力、 (ⅱ)比較の能力、 (ⅲ)カテゴリー化の能力、 (ⅳ)抽象化の能力、 (ⅴ)焦点化の能力、 (ⅵ)参照点能力、 (ⅶ)その他、言葉の意味を考える上で必要不可欠な様々な能力」 「(ⅶ)には、関係形成能力やグループ化の能力、統一体操作の能力や心的スキャニングの能力、イメージスキーマに関する能力やメタファーに関する能力、等が含まれる。 関係形成能力とは、あるものを別のものとの関連で理解する能力であり、この能力によって、個々の言語表現はそれぞれの意味との間に指示(designate)的な関係を築くことが可能となる。 グループ化の能力と統一体操作の能力は、事物を類似性や近接性、その他の関係に基づいてグループ分けし、分けられたグループを1つの統一体としてより高次の認知処理をする際に利用していく能力である。 この能力を介して、概念の具現化(conceptual reification)が起こる」 グループ化についても、欧米人と東洋人の違いが実験結果として指摘されている。 (参照:「西洋人と東洋人では注意し記憶することが異なるという事実」http://cds190.exblog.jp/648188/) カテゴリーに分類するのが「規則」=ルールだ。 欧米人はルールを見出すことが得意で、「規則」によってグループ化をしやすい。 見た印象が似ているというのが「家族的親和性」だ。 東洋人はこれを見出すことが得意で、「家族的親和性」によってグループ化をしやすい。 同じ東洋人でも、日本人と中国人では、得意とする「家族的親和性」によるグループ化の方向性が異なる。 それは、和語と漢語によく現れている。 漢字は、旁と偏から成っているが、同じ木偏の漢字ならば「木」グループと容易に視認できる。 これは木々の「家族的親和性」を木偏で表現している訳で、それは「林」や「森」にも派生する。 旁によって異なる漢字となるが、同時に一音節の異なる発音を得る。 この一音節の発音は、日本語の音読みに通じるが、多いとはいえ数は限られている。 同じ旁で同じ発音で偏が違う同音異義語があるのがふつうだ。同じ木の仲間という「家族的親和性」内部の一種一種の木の違いはこの旁と発音によって表現される。 一方、和語、つまりは漢字の訓読みは、「さくら」「うめ」「まつ」と発音的に不規則な多音節で木としての「家族的親和性」を表現していない。 では、漢字導入以前の日本人は、何にどのような「家族的親和性」を見出していたのだろうか。 それを和語から知ることができる。 「さくら」の名称の由来は、一説に「咲く」に複数を意味する「ら」を加えたものとされ 、元来は花の密生する植物全体を指したと言われている。 また他説として、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)だからサクラであるとも 言われる。 いずれにせよ、木と木で「家族的親和性」を見出すのではない。つまりは、モノとモノで「家族的親和性」を見出すのではない。 「さくら」のサクは「咲く」のサクという現象で、同じ音韻でコトとコトの「家族的親和性」を見出し表現していた。 「さくら」のクラは「蔵」=神霊が鎮座する場所のクラで、場所はモノではなくコトだとすれば、この解釈でも、同じ音韻でコトとコトの「家族的親和性」を見出し表現していたことになる。 「赤い」のアカが、「明るい」のアカに通じる。 「鼻」のハナが、「端」のハナに通じる。 「先」のサキが、「崎」のサキに通じる。 みな、同じ音韻でコトとコトの「家族的親和性」を見出し表現していた。 なぜ、日本人は漢字を導入した際に、音読みだけにせず、訓読みつまり和語を残したのか。 無論、音読みだけにしたら日本語はカタカナ英語ならぬカタカナ中国語になってしまっていた訳だが、古今東西ではそのような展開が一般的なのだ。 元来の和語の「家族的親和性」、これは文字によらない<部族人的な心性>の認知表現パターンなのだが、縄文時代以来、日本人はこれをどうしても温存したかったのだと思う。 私個人的には、まったく説明はできないのだが、「共感覚」(synesthesia)にどこか通じるような気がする。 「共感覚」とは、ある刺激に 対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象のことだ。 「共感覚」は、その持ち主によってそれぞれ内容が違う。 しかし、たとえば「腹黒い」奴をを見れば何となく「黒」を感じたり、女の子がキャーキャー喚けば「黄色い歓声が上がった」などと言ったり言われて賦に落ちたりしている。 そういう人々に共有された認知も「共感覚」的だとは言えまいか。 文字が入ってくる前の列島、主に西日本のほぼ同じ気候風土で暮らした日本人は、森羅万象への共通体験を通じて同じ内容の「共感覚」を共有していたのではあるまいか。 そうした「共感覚」が、同じ音韻でコトとコトの「家族的親和性」を見出し表現する和語を造語し、その意味のネットワークを構築したのではあるまいか。 余談だが、ランボー(Rimbaud)の傑作に「母音」(1871年)というのがある。 彼も、アエイオウの発音を聞くと、色彩が目の前に浮かんでくるそうだ。 Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青であり、 「母音よ、君たちの隠れた誕生を語ろう」と呼びかけた。 ポリネシア語と2つだけ世界で例外の母音主義の日本語、その大本である和語は、「共感覚」を温存しやすい言葉であり、自然豊かな風土と四季折々の風情が「共感覚」を民族的に共有させ、そのことが日本人の「言霊」観念などにも展開しているのではあるまいか。 「心的スキャニングの能力は、ある経路を心的にたどっていく能力である。 この能力には、 連続的スキャニング(sequential scanning)と 一括的スキャニング(summary scaning)がある。 前者は、一連の状況を1つ1つ順を追って認知していくというスキャニングの仕方であり、 後者は、捉えた状況を累積し、それらを1つの複合的なまとまりとして認知していくというスキャニングの仕方である」 詳細は省くが、 このような情動感情プロセスに照らして、 連続的スキャニングは因果律的な認知表現に繋がり、 一括的スキャニングは共時性的な認知表現に繋がる。 (参照:「因果的な情動感情プロセスのどこに共時的解釈が可能なのか(1/3) 」http://cds190.exblog.jp/6290827/) また、 中国人の<社会人的な心性>は、天意や易を筆頭に共時性に則っている。 それは、総じて一括的スキャニングの認知表現パターンによる。 一方、 欧米人の<社会人的な心性>は、一神教や科学を筆頭に因果律に則っている。 それは、総じて連続的スキャニングの認知表現パターンによる。 そして私たち日本人の<社会人的な心性>はというと、 漢字導入以前の文字のない和語のみの頃の<部族人的な心性>をベースに温存しながら、 古代において中国の<社会人的な心性>を日本化して導入し、 近代において欧米の<社会人的な心性>を日本化して導入し、 戦後は、和語、漢語、カタカナ英語の混用で両者を調和的に統合したものとなっている。 これは、総じて一括的スキャニングと連続的スキャニングを同時並行させる認知表現パターンによる。 「コンセプト思考術」のフレームワークは、私たち日本人が自然体で無自覚的に展開しているこの認知表現パターンを意識的に客観視するものである。 自らの思考をメタ思考することで、発想を深め洞察を誘うものである。 研修では受講者はすぐに理解する。日頃、因果律に則った合理性のロジカルシンキングに慣れ親しんでいるため、理屈は理解するのだが具体的な活用するとなると最初は戸惑ってしまう人が多い。しかし、そもそもはむしろ理屈なしの日本語に内臓されたアナロジーを重視するだけだからやがて容易に活用するようになる。 そもそも日本語とその言葉遣いとして私たちの血肉になっている日本人の生活文化がそういう発想思考をできるようになっている。要はそれに意識的にも無意識的にも身を委ねて明示知だけでなく暗黙知や身体知をも受け入れたり発したりするようになるかどうかだけだ。 <モノの機能>と<モノの感覚>は、因果律に則った連続的スキャニングで導き、 <コトの意味>と<コトの感覚>は、共時性に則った一括的スキャニングで導く。 あるいは、 送り手側のモノ提供の論理 から 受け手側のコト実現の論理 へという展開から、 パラダイム転換物語や 問題発見→課題創出→課題解決策の考案という連続的スキャニング成果を導く。 あるいはそうした全体を俯瞰してコンセプトへの総括という一括的スキャニング成果を導く。 そうした発想思考の展開は、最初の浮かんだ問題意識なり気づきなりアイデアなりから、もっともふさわしい展開をすればいい。 なぜなら、一括的スキャニングと連続的スキャニングを同時並行させる認知表現パターンの具体的な有り方は、個人差があったり、集団であればメンバー構成によっても異なるし、発想思考のテーマなり方向性なりに応じて異なるからだ。 「イメージスキーマは、日常の身体経験を基盤として成立する、非常に抽象的で単純な前概念的構造である。 このイメージスキーマをもとに、様々な経験が構造化され、 物理的領域における概念(筆者注:コンセプト思考術では<モノの機能><モノの感覚>)が 抽象的な概念領域(筆者注:コンセプト思考術では<コトの意味><コトの感覚>)へとメタファー的に投射される。 また、概念メタファーにおいても、起点領域から目標領域へと写像されるのは、起点領域のイメージスキーマ的構造である。 イメージスキーマは、概念を構造化するために、また、メタファーは、新しい経験や概念を取り込んでいくために、それぞれ重要な役割を果たしている。いずれも言葉の創造性に深く関与している」 「コンセプト思考術」のフレームワークでは、 <モノの画一的な機能>がメタファーとなって<モノの没個性的な感覚>が認知表現され、 <モノの没個性的な感覚>がメタファーとなって<コトの皮相的な意味>が認知表現される。 <コトの皮相的な意味>=問題発見がメタファーとなって <コトの画期的な意味><コトの個性的な感覚>=課題創出が認知表現される。 <コトの画期的な意味><コトの個性的な感覚>がメタファーとなって <モノの特徴的な機能>=課題解決策が認知表現される、 という概念要素群の調和的な統合を目指す。 最終成果を物語化したりプレゼン化するのはこの順序だが、 発想思考の過程としては、最初の浮かんだ問題意識なり気づきなりアイデアなりからそれに該当する概念要素が決まって行くから、順序は不定だ。 逆順という場合もあれば、途中の空白=間を前後の文脈から推量する場合もある。 これを「間の推量フレームワーク」と呼んでいる。 これは、因果律の連鎖である「A→?→C」において「?=B」と推測するのとは異なる文脈の推量である。 たとえば「A」<コトの皮相的な意味>=問題発見があり、その問題意識から先に「C」<モノの特徴的な機能>=課題解決策が浮かんでしまう場合がよくある。 この場合、「A→?→C」の「?=B」に相当する<コトの画期的な意味><コトの個性的な感覚>=課題創出を後から検討しなければならない。実際には、この過程を経ることで、「B」<モノの特徴的な機能>=課題解決策の過不足が分ることがそれを仕上げる助けになる。 こうした推量は、発想思考において連続的スキャニングと一括的スキャニングを、ちょうど「AとかけてCとときます。その心は?=B」という「なぞかけ」をつくる時のように同時並行させることで可能となる。 (4) http://conceptos.exblog.jp/24704600/ につづく。
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| 2015-11-24 04:00
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私は自分が実際に日本の企業社会でした経験から普遍的な文脈や客観的な法則を導くために雑学する雑学者です。
「コンセプト思考術」も、フリーランスの構想企画者として複数業界で複数大手の仕事をした30代までの体験に基づき40代にノウハウ化、企業や自治体に研修したものです。 40代、様々なプロジェクトのプロデューサーとして集団や組織と関わった経験から、日本人ならではの発想思考や集団独創を肌身で感じとり、50代、それについての仮説を検証すべく科学や歴史を雑学してきました。 還暦になる今年を期に、これも本ブログで整理していきたいと思います。 20世紀後半、戦後日本の企業社会そしてマーケティングの実際はどんなものであったか、一般的に確かに息づいていた日本型経営や日本人ならではの集団独創とは実際の現場としてはどんなものであったか、ご興味ご関心のある方におつきあいいただければ幸いです。/ その他のジャンル
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