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日本人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>をベースに形成されたこと(12:結論)

「日本史から見た日本人[古代編]」渡部昇一著 祥伝社刊 発



(11:間章)
http://conceptos.exblog.jp/24625581/
からのつづき。


(「4章 鎌倉期-----男性原理の成立
  -----この時代、日本社会は『柔から剛』へ激変した」の検討のつづき)



「社会形成力」としての「武士性」を支えた良妻賢母の女性像


関幸彦氏は「NHKカルチャーアワー歴史再発見/武士の時代へ 東国武士団と鎌倉殿」でこう解説している。

「頼朝が短期間のうちに東国武士に君臨し得た最大の理由は、かれらの経済的要望を汲み上げた力量でした。

 開発にともなう土地の領有権の保証、つまりはかれら領主たちが流した汗を、正当に受けとめてくれることへの期待感で、これを頼朝は受けとめたのでした。

 ”東国の王”として武士たちが推戴した頼朝は、流人から出発した”裸の貴種”ということになります。王朝の官職や位階とは距離を保つこと、そのことが”東国の王”であることの証しでもあったのです」


「頼朝はかれらを家人として組織し、その開発所領を多くは地頭職(しき)として安堵したのです。それは反乱勢力たる頼朝の占領政策に由来したもので、ここに王朝国家から切り離された東国支配が実現されることになります。

 こうした東国への実行支配はやがて、寿永二年(1183)十月宣旨により中央政府も認めるところとなります。この時点で、謀反の政権たる頼朝は、名誉を回復するところとなります。
 おりしも、同じ時期に挙兵した義仲が平氏を西海に追い、都で後白河院と対立し始めた情勢のなかで、東海・東山両道をふくむ『東国沙汰権』を頼朝は授与されたのでした」


藤原政権・平氏政権の王朝社会型の女性原理と鎌倉幕府の武家社会型の男性原理が著しく対照的であるのは、まさに対照を際立たせることが頼朝革命の成功の鍵であり生命線だったのだから当然だ。

それまで、武士(もののふ)にしろ兵(つわもの)にしろ、朝廷のコントロールによって言わば足の引っ張り合いをさせられてきた。
頼朝が最終的に勝利した源平合戦もその例外ではなかったが、それに終止符を打ったところが頼朝の革命家たる所以であり、それは平家全盛の頃に競合して消耗していた東国武士たちの悲願でもあった筈だ。頼朝はこの悲願に応えたのである。

こうした武士たちの人間的尊厳を安堵させる頼朝の思考と行動には、武家社会という枠組みの「社会形成力」としての「武士性」をみることができる。


ちなみに時代が下った織田信長が印に記した「天下布武」という言葉が有名だ。
一般に「武力で天下を制覇する」という意味に思われているが、「武」は「武力」ではなくて「七徳の武」であるという説がある。
「武の七つの目的を備えた者が天下を治めるにふさわしいのである」という「春秋左氏伝」が出典だ。天下は「世の中」全体のことである。
つまり信長は、「天に任されて世の中に武を布くのは自分だ。徳をもって世の中を治めるぞ」と豪語した。
ちなみに「七徳の武」とは、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする、という七つの徳を持つものである、とされる。
革命家頼朝は、まさに「天下布武への志向」を根幹に据えて「武士性」を武家社会の「社会形成原理」にしたと言える。

関幸彦氏はこう結論している。

「鎌倉殿・頼朝の遺産は武力を彫磨させ、武士たちをより高い次元の『武家』へと統合させることで、『鎌倉』の時代を創出させたことでした。

 三代の執権北条泰時が制定した貞永式目(注:御成敗式目。鎌倉幕府の基本法典。頼朝以来の判例や慣習法などを編纂した初の武家法。武家社会で適用される基準を平易に明文化)を『淡海公(藤原不比等)ノ律令ニ比スべき』、『関東の鴻宝』(吾妻鏡)と語る武家意識のなかに、武威にともなう憮民への自信が見えていると思います。

 権力の正当性をどのような形で社会的に認知させるのか。
 武力を武威に加工し、民衆へのいつくしみ(憮民)を普遍的な法の世界で実現してゆく
 これが『武家』の正当性の保証につながった
のでした。

 かつての『淡海公ノ律令』が中国をお手本としたのに比べれば、貞永式目は『タダ道理ノ推ストコロ』に従って編纂されてもので、それはまさにお手本なき時代の産物でもあったのです」


この「タダ道理ノ推ストコロ」とは、律令制の建前主義ではなく現実主義を貫徹する、ということだが、具体的には、武家社会の創出において、機能しなくなった王朝型の<社会人的な心性>を一掃し、<部族人的な心性>をベースにして「タダ道理ノ推ストコロ」から新たな<社会人的な心性>を構築し直したということに他ならない。

頼朝に期待された「領主たちが流した汗を、正当に受けとめてくれる」ということは、部族社会でそのリーダーに人々が期待したことそのままだ。
頼朝が凄いのは、この素朴な<部族人的な心性>の要望を満たして平家を滅亡させた後、返す刀で新たな<社会人的な心性>として「武士性」を「社会形成力」に結集したことである。
頼朝はほとんど動かずに配下を動かして平家を打倒したのだが、この間に鎌倉幕府の仕組みと一緒にそれを駆動させるダイナミズム=「武士性」をも構想していたのであろう。

私はそのポイントはこういうことだと思う。
王朝国家は女性原理で朝廷の「権威」による「場形成力」を中心(中央)と周縁(地方)との支配被支配関係で発揮した。
これに対抗した頼朝は、武家政権を男性原理で幕府の「権力」による「システム化能力」を御恩と奉公との主従関係で発揮した。
そして王朝国家の「場形成力」に飲み込まれないように都の京都から離れた鎌倉に本拠をおいた。
ちなみに王朝国家の平清盛政権は交易主義で「場形成力」を発揮しようとして福原への遷都を強行し、福原を交易拠点港とした宋との貿易拡大によって海洋国家の樹立を目指していたとも言われる。
一方、鎌倉幕府は農本主義の封建国家を目指して「システム化力」を発揮する中、東日本も含めた本州全体を地理的に捉えれば太平洋岸の真ん中の兵站拠点港となる鎌倉を開府の地としたと考えられる。
後の歴史を俯瞰すると、信長が平清盛の交易主義を継承しつつ「権力」による「システム化力」の完成である天下統一の寸前で終わり、秀吉が天下統一を果たすも「権力」による「システム化力」が不完全ゆえにその再編強化策として唐攻め(朝鮮出兵)という対外政策に出て頓挫。家康は関ヶ原の勝利の後、「権力」による「システム化力」の完全を求めて幕藩体制という農本主義の対内政策を徹底する。それは、大枠で頼朝以来の天皇(朝廷)と将軍(幕府)による「権威と権力の分立」を継承するもので、「権力」については主従関係を幕府と各藩、各藩内部の藩主と家臣の二段構えにした。「権威」については「場形成力」を幕藩体制全体と各藩内部の二段構えにして後者に自治を認め、建前的に権威権力一致のシステムとして家父長制の「お家大事主義」を一貫させる、という周到なものであった。
このように長いスパンで歴史を俯瞰しても、日本全体レベルの「社会形成力」としての「武士性」が鎌倉幕府に始まっていることは間違いない。



「日本史から見た日本人[古代編]」で渡部昇一氏は、鎌倉武士の男性社会における女性像を解説している。
これは、日本人の<社会人的な心性>がベースとする<部族人的な心性>をチェックするのに最適の論題である。

たとえば、藤原時代の貴族社会では母系相続だった。
妻問婚、つまり男が女を見初めて女のもとに通う、あるいは女の家族が男を迎え入れるといったことを基調とし、女を中心として婚姻が成立していた。こうした婚姻関係は、日本には先史時代から母系社会の伝統が根強く、その名残の反映であると言われる。
平清盛が藤原不比等流に一族女性を天皇に嫁がせたのも、女を中心として婚姻が成立していた延長にある。
以上のことは<部族人的な心性>をベースに温存した平安時代の貴族社会の<社会人的な心性>と言える。
(なお、一般庶民の<社会人的な心性>はそれとは異なったようだ。というのは、兵(つわもの)を含む庶民は律令制の戸令に則している筈だからだ。宗族制度が発達し科挙などが存在した唐の戸令と氏姓制度を残した日本の戸令では違いがある。田令・賦役令など班田や各種賦課のための規定との関連性が強い。中国では同居共財の財産を兄弟分割相続する原則となっているが、日本では氏族もしくは戸主の財産の存続・保全を重視して嫡子の得分を多くした嫡庶異分主義を採用している。
 つまり、貴族社会は、律令制の本家とも異なり、日本の庶民を規制したのとも異なる慣習を展開したことになる。これは、貴族社会がより濃厚に<部族人的な心性>をベースにした<社会人的な心性>を採用したことを意味する。)

一方、鎌倉時代の武家社会は、貴族社会の母系に対して父系相続、武士である男を中心として婚姻が成立していく方向に転換する。
そこだけを見ると、<部族人的な心性>をベースから排除したかのようだが全くそうではないことが、鎌倉武士の男性社会における女性像を見ると分かる。
結論を先に言うと、貴族社会の女性像が美と才能を武器にしたシャーマンのような働きをするのに対して、武家社会の女性像はグレートマザー( 母なるものを表すユング心理学の元型の一)のような働きをするのである。
その典型が頼朝亡き後、将軍を陰に陽に支え御家人の精神的な拠り所となった北条政子である。そして、そのような母の有り方は現代のたとえば相撲部屋の女将さんや下町食堂の肝っ玉母さん、老舗の旅館や料亭の女将、そしていわゆる良妻賢母と呼ばれるような人々に継承されている。
この二つの女性像は、軟派でロマン主義のシャーマン、硬派で現実主義のグレートマザーと言えるくらいの開きがあるが、ともに<部族人的な心性>をベースに温存した<社会人的な心性>であるのは同じである。


著者は「源氏物語」の紫式部の女性観が現れている一節を例示してこう述べる。

「後世の人たちから見て、最も重要な女性の徳と思われる貞操が、ちっとも問題にならないのは面白いと思う。(中略)道徳の臭みがまったくないのである。
 当時は平安朝の宮廷においてのみならず、武家の家庭でも、それなりに家庭が乱れていたようである。
 源氏の例でも、範頼(のりより)の母は池田宿の遊女、義仲の母は江口の遊女、そのほか悪源太義平の母も遊女、義経の母の常磐御前などは、短い間に三度も夫を換えているといった調子である。

 ところが鎌倉幕府が出来ることになると、急に女性の道徳が引き締まってきた
 『女の道』というような観念が出て、武家の正妻となる者は、まず貞操を全うすることを以て婦人の第一の美徳と考えるようになり、家庭生活が厳粛になってきた」

次に著者は「吾妻鏡」の有名な一節、義経の女になっていた白拍子の静御前が捕えられ舞を踊らされ、奥州に追われた義経を慕う歌を歌い、怒った頼朝を政子がなだめた一節を例示してこう述べる。

「政子は、
 『女の道というのはそういうものではありません。静が判官殿(義経)を慕いますのは、その昔、石橋山であなたが敗北なされてから、あなたのあとを慕って、私が方々で苦労したのと同じことでありますから、どうぞ許してやってください』
 と取りなしたのである。頼朝も、
 『なるほど女の道とはそうあるべきものか』と感心して、褒美を与えられたという」

これは愛の原理主義ともいうべきもので、<知>でも<意>でもなく、<情>というものの普遍的根幹を「タダ道理ノ推ストコロ」としている。慈母神的なグレートマザーの主張とも言えよう。


「政子は『女の道』というのを、いろいろな場合に範例として示している。そうして彼女の頼朝に対する貞節は大変なものであり、夫を大切にし、家を大切にする点でにおいて、その伝統はつい最近までの日本婦人の生き方を決定してきたのである」

天皇から幕府追討の命が下った時に政子が配下を通じてこう言わせたという。
「『私の亡き夫、頼朝公が天下を平定し泰平の御代を開いた功は、たとえるものがなく大である。しかし今、讒言によって汚名をこうむっているが、頼朝公の功を思う者はこの鎌倉にとどまり、そうでない者は、即刻、京都に去るがよろしかろう』と。
 亡き親分のネエサンにこう言われれば、そのおかげで大きなシマをもらった大貸したちが、直接に恩を受けたことのない京都の公家の味方になるわけはない。実質的に承久の変のオトシマエをつけた泰時は、政子の甥である」


平安貴族の妻問い婚は、才色兼備の女性が出世し高貴な身分の者と婚姻関係を結べば利得に繋がるという朝廷社会の現実が反映したのだろう。
複数の男性が娘を見初めてやってきて子供を宿した場合、現代のDNA鑑定のように分かるわけはなく、母親は必ずしも娘の意中の男性の子供と認めず、高貴な身分の者を子供とした可能性が高い。むしろ、娘も通って来る男たちも、そして母親も父親もそういうものと割り切っていて、貞操観念もへったくれも無いも同然だったのではなかろうか。

これと真逆に貞操観念の旺盛な政子には、朝廷を敬遠していた形跡があると著者は主張する。

「承久の変ののちに、政子が京都に行ったとき、後白河法王が会ってやろうと申された。(中略)しかし政子は、
 『私は田舎の老婆で、宮中の礼儀も知りませんし、失礼なことがあるといけません。ご辞退します』
 と言って参内しなかった。
 政子から見れば宮廷の女官などは、ふしだらな女どもにすぎない。そんな者たちに宮中の作法など、とやかく言われるのはいやだ、ということではなかったか(中略)。

 政子が頼朝や武士たちに対して権威を保ち、頼朝死後は尼将軍などと言われるほどになったのは、自分の貞節と内助の功に絶対の自信があったからである。
 紫式部や清少納言はこういうような権威を男に対して持ちえない」

「われわれがつい最近まで『日本の母』としてイメージしてきたのは、政子の系統の女性であったらしい。自分は貞潔・倹約で女の道をよく守ると同時に、夫や男の子たちが男らしく振る舞うことを期待するという、あのタイプである」


著者はオイルショック当時、教鞭をとっていた大学を卒業した母親を想い浮かべてか、女性像論をこう締めくくっている。

「われわれにとって、まったく新しいように見える近ごろの男女間のモラルなどは、少しも新しくない。それは政子以前にもどっているだけである。
 日本人は厳と緩の両極を、すでに数百年前に体験しているのであるから、将来も驚くことはあまりなかろう」

それから40年後の現在、実際に著者の言うとおりになっている。
ただし著者が循環論を想定したのに対して、いまの現実は格差社会化にともなう両極論になっている。
強くなった母娘系統が、政子の良妻賢母系と、平安貴族の言わば母娘盟友系の二極論が格差社会の影響もあってより顕著に伺えるようになっている。
これは平安貴族の重視した才女と美女が分流したとも解釈できる。
才を重視した良妻賢母の母が娘を良妻賢母に育てる系統はむしろマイナーであって、個別具体的な展開をそれぞれに多様にしている。
一方、美を重視した美妻美母の母が娘を美妻美母に育てる系統が圧倒的にメジャーであって、テレビをつけたりデパートやブランドショップに行けば毎日いつでもその画一的な展開を見せつけている。

ちなみに私はこれを「”ヘイアンピアン”な女性主導の状況」と捉えて、「”エドピアン”な男性主導の状況」と対照させている。
(参照:
「人口減少社会日本、行動はストレートに脳が最大限に満足する方向に向かっている」http://cds190.exblog.jp/373753
「私たちが無自覚でいる「日本型」の構造 その4=<江戸ピアン>と<平安ピアン>」http://cds190.exblog.jp/11894082/




鎌倉以降の道徳主義や教訓主義が「社会形成力」となった日本版の啓蒙思想


以上の女性像論において、平安には道徳臭がなく鎌倉は道徳で満ちていると言及した著者は、鎌倉文学が教訓に満ちていることも指摘してこう述べている。

「今の世の中でもハウ・ツウ物など読む人たちは意識が中産階級的で、実力がなくなると転落するおそれがある階級にいることを、心のすみに持っている人たちである」

つまりあくまで一般論だと思うが、道徳や教訓は中産階級のニーズに応えるもので、転落のおそれがない上流階層(特権階級)と、サバイバルで必死の下流階層(労働者階級)はそんな必要を感じないと喝破している。
40年前の指摘だが、格差社会化した現在の思潮としても顕著であると思う。
中間層が崩壊した今のさらなる現状としては、下流階層ないしその予備軍となった人々を含めたより広範な人々が道徳や教訓の必要を感じなくなっている。中間層の崩壊とは憂うべき事態と言うしかない。

前述したサブカルチャーを主要な表現場とする「”ヘイアンピアン”な女性主導の状況」や「”エドピアン”な男性主導の状況」も、基本的にはそうした現状のサブカルチャー偏重を捉えるものである。
”ヘイアンピアン”は美と健康に邁進し道徳や教訓どころではない。
”エドピアン”はたとえばジャパンアニメに多く登場する道徳や教訓に共感しているが、学習した道徳や教訓を果たして現実の生活や仕事や社会において具体的に展開しているかとなると未知数である。


「平安文学と鎌倉文学の差を知りたいならば、『枕草子』と『徒然草』を比べるのが一番よい、と言われる。
 平安朝に書かれた『枕草子』は著者の観察した風流談や思い出であり、教訓的要素というものがほとんどない。(中略)
 これに反して鎌倉時代の『徒然草』は、社会のことがらの聞書(ききがき)であり、しかも、どのページにも教訓談が入れられている。(中略)

 本の内容にしても、平安朝文学は男女の恋愛が中心で、鎌倉文学のほうは武士の義理が中心である。(中略)後世の芝居などに出るような、義理と人情にはさまれて心中するというパタンは、鎌倉文学から出た伝統である」

著者は、謡曲や日記や紀行や戦記や歴史物など、何でも鎌倉時代のコンテンツは仏教の説教が内容になっていることを指摘してこう述べる。

「普通挙げられている理由は、末法思想の流行などであるが、一つには新しく台頭してきた武士階級が、本質的には中産階級の意識の持ち主だった、ということによると思う。
 中産階級というのは、どこの国でも説教好きだったものである。
 
 イギリスなどでも、貴族なんかは説教を聞いたり、『自助論』(スマイルズ著)などの教訓書は読まない。実力でやっていかなければならない人たちが教訓を求めるのである。(中略)
 この点で北条政子も中産階級的である。中産階級では一家の主婦たるものは、貞潔で、倹約で、夫を励ましたりするのが美徳になるであろう。

 イギリスの社会階級について、(中略)ネヴィソンは、一番教訓に関係ない人たちとして、貴族と労働階級を挙げている
 その中間にいるミドル・クラスは、教会の説教や教訓書のよいお得意様である」


以上のことは、現在の日本人の諸相を振り返るにおいて示唆的である。

ヨーロッパで、中世以来の宗教的権威等を批判し、理性を大衆に啓発することによって人間生活の進歩・改善を図った、市民社会形成の推進力となった啓蒙思想。
日本の歴史では、これに相当するのが鎌倉以降の道徳主義や教訓主義であり、それが庶民に浸透していた土壌の上に明治・大正時代、西欧由来の啓蒙思想がのっかったと言えそうだ。
だとすると、現代のほとんどの人が表向きにポリティカルな言動を回避し、メインカルチャーを支える訳でもなく、実質的にはファッションやグルメやアニメやゲームといったサブカルチャーで自己表現をしている、「”ヘイアンピアン”な女性主導の状況」や「”エドピアン”な男性主導の状況」は、鎌倉以来の道徳化=教訓化=啓蒙化してきた長い日本人の歴史で大きな転換点にある、ということになる。

しかし、それでも日本人が古来、<部族人的な心性>をベースに温存して<社会人的な心性>を形成してきた、という原理原則は変わっていないし変わりそうにない。
むしろ<部族人的な心性>は神話的世界に生きるのであって、
それを経済階層と購買能力という男性原理を前提に女性主導で仮想するのが”ヘイアンピアン”、
それを共感階層と共感能力という女性原理を前提に男性(オタク)主導で仮想するのが”エドピアン”
ということで、
ともに現代的な媒体を駆使してはいるが<部族人的な心性>をより濃厚にしている、あるいは本来、深層心理にこそ濃密に堆積している<部族人的な心性>を日常生活においてより表出させている、と言える。

私が「”ヘイアンピアン”VS ”エドピアン”」を提唱したのは2005年だった。
2011年に東日本大震災があり福島第一原発が爆発して、現実はその様相をより顕著にしている。
その背景には、世界各国におけるグローバリズムの進展でいわゆるブランド志向もグローバル化するとともに、日本のサブカルチャーや日本食を筆頭に一般庶民の生活文化が世界各国の人々の人気を得たりブームが定着したりしてグローバル化したことがある。格差社会の蔓延と並行する世界全体の動向化したことがある。
さらに、福島原発事故による放射能汚染の垂れ流し常態が収拾しないで続いていて、それにも関わらず東日本の復興も終わらぬ段階から2020年の東京オリンピック開催に現を抜かすといった、言わば一億総現実逃避的な心理状況も影響しているように思う。

リアルな現実より、基本的にはすべてを記号化し体系化するその反復に過ぎないシミュラークルを現実として感じていたい。そういう心理が特に中間層から落ちこぼれてしまった人々や、今は中間層でも自分や子供が中間層ではなくなるおそれを抱いている人々において、否応無く顕著化してきているのではなかろうか。
それは人類普遍の<部族人的な心性>に照らせば、なるべく毎日の一瞬一瞬を心理的には祝祭を生きる、ということである。
なるべく日常ではなく、非日常を日常にして暮らすということである。それによって、より恐ろしい日常を忘れて生きることができる。
しかしそれは、庶民の主体的な「社会形成力」となる<社会人的な心性>に昇華するものではないだろう。
むしろ、為政者の強制的な「社会形成力」となる<社会人的な心性>を容易に受け入れるものとなっていく土壌となっていくのではなかろうか。時に為政者は軍事経済や戒厳令といった非日常を日常にして暮らすことを国民に強いてきた歴史が古今東西にあり、戦前の日本にもあった。

現代のサブカルチャーの様相やポリティカルな事での無関心や事勿れ主義は、江戸時代の庶民の様相に似ていると言われる。
確かに江戸時代の町人も、お上や武家の押しつける憂き世を受け入れながら、自分たちのライフワールドを浮き世に見立てたり設えて楽しく暮らしていた。
しかしそれが明治維新を起すような新たな<社会形成力>になった訳ではなかった。
大政奉還と江戸城無血開城へという動きの最中、江戸市中は「えじゃないか、えじゃないか」を連呼して踊る群れが練り歩いていた。
それと同じことが現在の日本のあらがえない事態の前で現代的に再生しているのかも知れない。

<社会形成力>としての「武士性」なるものを敢えて今問う理由がそこにある。


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by cpt-opensource | 2015-11-01 04:00 | 日本型の発想思考の特徴論


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