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こんな今だから「文化人類学の視角」が役立つ(8:後半)

「文化人類学の視角」山口昌男著 岩波書店刊 発



こんな今だから「文化人類学の視角」が役立つ(8:前半)
http://conceptos.exblog.jp/24556924/
からつづく。




経済活動としての「スキゾ・ゲーム」と「パラノ・ゲーム」



インターネットやゲームソフトなどの成長分野のベンチャー企業は、ビジネスチャンスを捉えて新ビジネスを立ち上げては市場から資金を募り果敢な企業買収をして新サービスを大胆に打ち出していく。
文字通り俊敏なる経営をしている訳だが、こうした事業活動は総じて「分裂症親和気質(スキゾ人間)的」と言える。

一方、大手家電メーカーなどは、成長率が高かった高度成長期でも、現代版の農耕社会かのように、年明けから年度末にかけて新年度の予算編成と人事異動が計画され、年度明けからその体制で事業を展開する。改善も改革もこの年度単位のサイクルで行われるから、引き継ぎは着実に行われるがとても俊敏とは言えない。資金調達も経営危機などの不測の事態以外は同じサイクルで経営が行われてきた。定番商品の改善や生産といったルーチンだけでなく、新規事業や新商品の開発のプロジェクトもである。(以上の年度型サイクルは、日本の政府や自治体のサイクルでもある。)
こうした事業活動は総じて「低血圧または執着気質(パラノ人間)的」と言える。

日本ならではの進化を遂げた商社は、ルーチン化した事業活動については農耕的だが、切迫したエネルギーや食糧や稀少金属などの戦略物資の供給確保といった緊急ミッションについては狩猟的であり、両方の側面を併せ持っている。
ただし、大手商社の緊急ミッションが国策への協力である場合、国の後ろ盾があっての事業活動だから、狩猟的と言えるほどの冒険性は乏しい。また、同じくリスクを追ったチャレンジ精神と言っても、親方日の丸で親分の命令に従って子分として挑戦するのと、あくまで自立した存在として挑戦するのでは大きなメンタリティの違いがある。
日本の金融機関の事業活動も同じだ。国内市場が農耕的で、それに比べれば国際市場が狩猟的であるようだが、政府の庇護と管理のもと政府方針に沿った活動をするのであれば、アメリカの投資銀行のハイリスク・ハイリターンを狙う狩猟的には比べるべくもない。
日本ならではの商社も日本の金融機関も、欧米の同業の企業に比べれば、総じて農耕的で「低血圧または執着気質(パラノ人間)的」と言える。私の個人的な感触では、それに飽き足らない「高血圧または分裂症親和気質(スキゾ人間)的」な人が転職したり起業したりしているように思う。

日本ならではの進化を遂げたコンビニは、日々の店舗運営とその支援システム開発などは農耕的で、ショートサイクルの商品開発や国内外の多店舗化などは狩猟的である。
グローバル化したユニクロや外食チェーンやブライダル産業などもほぼ同様の体制にある。
長期に及んだ円高をテコにさまざまな業界のメーカー大手が外国企業を買収しグローバル企業化した。
グローバル市場に対応するようなった訳だが、一番大きな変化は、全体としては従来の農耕的な事業活動(生産や販売)を下部構造とし、狩猟的な経営活動(成長戦略や海外投資)を上部構造に据え直した、ということだと思う。
こうした上=狩猟的、下=農耕的の「上下二層のピラミッド体制」は、大手企業ばかりでなく、国内と海外に生産拠点をもつ中小メーカーや、国内生産の農産物を輸出したり海外生産の農産物を逆輸入するいわゆる「攻めの農業」においても展開している。
このような体制の経営者や、海外で陣頭指揮をとるべく現地に乗り込む責任者は、まず狩猟的な認知表現パターンを自然体で発揮する「スキゾ人間」タイプであるとみていい。

この上=狩猟的、下=農耕的の「上下二層のピラミッド体制」は、戦国大名が領国を勝ち取ったり守り抜いたりして領民である農民から年貢をとった体制、そして天下統一した秀吉が朝鮮出兵して領土を拡大しようとした発想であり、武家政権が生まれた平安末から中世まで続いていたものである。これが徳川幕府の幕藩体制と鎖国で、幕藩の支配階層が狩猟的であることが抑制された。しかし明治維新で王政復古、廃藩置県の中央主権体制となり、政府が帝国主義的な軍部の政策として強化する。朝鮮や台湾を支配し中国にも領土的野心を抱く軍国主義になっていった。それが敗戦で占領軍によって解体された。
そのため、日本人全体の集団的なダイナミズムになっていた上=狩猟的、下=農耕的の「上下二層のピラミッド体制」は、もっぱら民間企業の拡張体制が無自覚的にモデルとして体内化するようになっていった。
前線に相当する場に経営トップや幹部責任者がやってきて「陣頭指揮をとって共に戦う」などということが文字通りに行われる。これは戦国大名の行動パターンに他ならない。

一見すると、アメリカ企業の経営トップがフラット組織で現場を掌握するのに似ているが、
フラット組織が機械論的な低コンテクストな(文脈依存性の低い)ファクターで管理され基本、経営トップの遠隔操作が期待される個人主義であるのに対して、
日本企業の農耕民と比定されるピラミッド下部の集団恊働は、善くも悪くも現地の人と風土に密着した人間論的に高コンテクストな(文脈依存性の高い)ファクターで管理され、現地責任者が現場に密着する恊働が期待される集団主義である(陣頭指揮もこのような現地責任者に経営トップ自ら成り代わるという意味)
ために質的に大きく異なる。


以上の話だけだと、狩猟社会と農耕社会、狩猟的な経営活動と農耕的な事業活動があり、「パラノ人間」「スキゾ人間」を割り振って適材適所の分担がなされていて、日本の企業社会はとても合理的だという話になりそうだが、実際には全くそうではない。
現実の問題はもっと複雑で深刻だ。

たとえば商社は、かつて大学生の欧米留学や社会人のMBA取得がブームになったバブル期には、当然のごとく海外勤務を希望する新入社員が多かったのだが、今は国内勤務を望む者が多く、海外勤務になっても早く国内勤務に戻してもらいたいと希望する者が多いという。これは、海外留学希望者の減少と連動しているため、その原因は親御さんの経済的余裕の減衰だと一般的に指摘されるが、商社に入った新入社員は会社持ちで海外に行けて海外勤務が商社でのキャリアアップに繋がるのに、ということを考えると、経済的な事柄だけでは説明がつかない。
思うに、「パラノ人間」が若者社員から一般化し、本来「スキゾ人間」の若者社員が活躍できる商社でも、国内本社は「スキゾ的な活動」を嫌う内向きな「パラノ的体制」になったということではないか。
すると海外勤務から国内本社に帰ってきた「スキゾ人間」には相応しい居場所がなくなってしまう。
これでは「パラノ人間」「スキゾ人間」を割り振る適材適所の分担などできなくなってしまった、というのが実際なのだ。

さらにこういうことも言える。
狩猟型の雄、アメリカの投資銀行によってリーマンショックがもたらされたこと一つとっても、アメリカ型=狩猟型=合理的、などとは決して言えない。
一方、農耕型の雄、日本の家電メーカー大手たちが陥った状況一つとっても、日本型=農耕型=安定的、とも決して言えない。

現実は、
企業や企業社会が合理的だったり安定的だったりするのではなくて、
合理性や安定性が演じられていて、演じられた合理性や安定性を崇める「祭り」としてその業界経済が動いている
ということなのである。

具体的に周知の事実をもって説明しよう。
たとえば、日本の大手家電は示し合わせたかのようにこぞって同じ商品分野のそっくりの新製品を打ち出すが(今は4K、ちょっと前は3D)、そのための投資資金を日本の銀行が横並びで貸してきた。この全体を俯瞰して合理的だったり安定的だったりすると思えるだろうか。まずヒットしても利益を分け合うし、ハイエンド商品ゆえにグローバル市場でのシェア獲得は難しく、ヒットすれば早晩、新興国の低価格化攻勢に合いもする商品である。つまり比較的短期間のハイリターンを期待するもので、それはあまりにリスクが高い大ばくちと言える。
それでも同じことが繰り返されてきたのは、それこそ「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という精神状態だったと思う。そこにはある種の集合的無意識が作用しているのではあるまいか。
こうしたことの全体は、アメリカのメーカーや投資銀行ではあり得ない。言わば日本の「祭り」である。

一方、日本ばかりがおかしな「祭り」をしている訳ではない。
アメリカでは、日本のメーカーや銀行ではあり得ないアメリカの「祭り」をしている。
だから、アメリカの方が合理的というのもいわゆる「アメリカ出羽守」の宣う神話でしかない。
アメリカは計数的なロジックに厳しいという意味では合理的ではあるが、それは部分的な合理性であることがよくある。全体を俯瞰すれば、計数的なロジックがいつの間にか計数的なマジックになっていることも往々にしてあるのがアメリカの「祭り」である。
「祭り」が破綻して文字通り後の祭りになっても、彼らは挫けないで同じ「祭り」を繰り返す。
同じように日本も自分たちの「祭り」が破綻しても大筋で同じ「祭り」を繰り返す動きが耐えない。
一企業レベルでやって破綻したことを、国が公的資金を入れて企業や業界をまるがかえして繰り返す。家電や電機のメーカーの場合、それでも世界に売れて儲からなければ国が国民の税金で買い取っていくことになる。軍需拡大や原発推進はその大きな受け皿である。

よって、
農耕型の日本の家電メーカーの経営者が本当に「低血圧または執着気質(パラノ人間)」かどうかに関わらず、それ的な「演劇性」を発揮しがちで、そうすることで社内も社会も十年一日のごとく農耕社会の年度単位の「祝祭性」を維持している。
同様に、
狩猟型のアメリカの投資銀行の経営者が本当に「高血圧または分裂症親和気質(スキゾ人間)」かどうかに関わらず、それ的な「演劇性」を発揮しがちで、そうすることで社内も社会も十年一日のごとく狩猟社会の大きな獲物を穫ったり逃したりする「祝祭性」を維持している、
ということなのだ。
こうした文化人類学的な視角からの俯瞰は、経済合理性とはまったく無関係な話だが、現実の企業の様相や業界全体の動向を的確に説明している。


企業活動の実務において経済合理性に関係するのは「演劇性」ではない。
「祝祭性」を構成するもう一つの要素「ゲーム性」の方である。

日本の家電メーカーがやってきのは、
改善を繰り返してより効率的により高品質な製品を生産する「農耕型のゲーム」という、
地理空間でも知識空間でもどちらかと言うと「内向き」ないし「求心的」にエネルギーを費やす「パラノ・ゲーム」である。
一方、
アメリカの投資銀行がやってきたのは、複雑な金融商品を駆使してより大きなキャピタルゲインを目指す「狩猟型のゲーム」という、
地理空間でも知識空間でもどちらかと言うと「外向き」ないし「遠心的」にエネルギーを費やす「スキゾ・ゲーム」である。


それぞれがそれぞれの企業社会において「支配的なゲーム」となってきたが、
対応市場に他業界から出現した参入者が「もう一つのゲーム」として真逆のゲームをするようになった。

アップル社や任天堂はハードとソフトとオンラインサービスを三位一体化させて新ビジネスモデルや新価値を創出した。
そうした成長戦略を獲得する経営活動は「狩猟型のゲーム」=「スキゾ・ゲーム」であった。
日本のメーカーは、ソニーのゲーム別会社の創設といった一部の例外を除いて基本的に横並びで「農耕型のゲーム」=「パラノ・ゲーム」を繰り返してきている。
また、
インドの社会起業家は庶民の商売を助けるマイクロファイナンスという新ビジネスモデルを軌道にのせた。
そうした着実に社会貢献する事業活動は「農耕型のゲーム」=「パラノ・ゲーム」であった。
アメリカの金融機関がマイクロファイナンスに乗り出すという話はとんと聞かない。彼らがしたいのはあくまで「狩猟型のゲーム」=「スキゾ・ゲーム」だからだろう。


企業社会やビジネス世界では、何より経済合理性を踏まえた成功を目標とし、それを達成する「ゲーム」が想定されている、きっとそうである筈だと私たちは思ってきた。
しかし世の中の全体や経済の全貌を俯瞰すると、必ずしも現実はそういう合理性だけで形成されてはいない。
セットされた「ゲーム」を始めてしまえば、その「ゲーム」が設定する目標を達成するにふさわしい「祭り」に向かう「演劇性」の発揮が求められ、業界に属したり関わる企業やビジネスマンや官僚はみな割り振られた役割の「演劇性」を演じる。
業界全体の実質は業界の「祭り」の推移でしかない。
しかも、戦争経済という「祭り」が国家経済そして国民経済という枠組みで巾をきかせるようになれば民間の「祭り」も一気に変質してしまう、ということも忘れてはなるまい。

かつて冷戦時代には、東側経済と西側経済が隔絶していて、両者の「祭り」はまったく異質だった。それが冷戦終結後、世界全域が西側経済化したのがグローバリズムの出発点である。
だか、それ以前からアメリカの資本主義とヨーロッパの資本主義の違いがあり、両者は異なる「祭り」に向かってきた。さらに日本の資本主義は「世界でもっとも成功した社会主義」と言われるほどにもっと違った。冷戦終結後に資本主義に参入した中国やロシアもそれぞれの国の諸事情を踏まえた異なる資本主義という「祭り」を展開している。
一方、各国の「祭り」は国際金融で繋がっていて、通貨レートや平均株価や各種の先物取り引き価格が情報として共有されている。それは、異なる「祭り」を言わば異文化交流して渡り歩いたり繋げるための世界共通語みたいなものである。しかし、それは必ずしも同じ「祭り」を一緒にやっていることを示すものではない。世界共通語があり使われていることと、世界が一つであることとはまったく違う話である。


ざっくりと言えば、ビジネスマンにとっては業界経済とそれを左右する国家経済が関心事だが、一般市民にとっては国民経済とそれを左右する国家経済が最大の関心事である。
国家経済も、それぞれの国の「祭り」であり、政治や生活文化が密接に絡んでいる。
文化人類学の視角は、さまざまな経済、さまざまな政治、さまざまな生活文化を渾然一体のものとして全体世界や全体社会の本質的生態を捉えることができる。

翻って私たち個々の個人的な事柄についても、文化人類学の視角は有効である。
私たちには常に、
必ずしも好ましくない現実を受け入れ、その中でどうにかうまくやっていくという選択肢
と、
好ましくない現実を少しでも解消し、好ましい現実を少しでも実現していくという選択肢
がある。
そして複雑なことに、
この選択をめぐっても「ゲーム性」と「演劇性」が、個人、集団、組織、国家の各レベルの多様な「祝祭性」を促すべく関与している。

私たちは個人としても集団としても、組織としても国家としても、
慣れ親しんだゲームや演技を続けてしまう、という慣性の法則が良くも悪くも働く。
良く働けば「継続は力なり」と言われる。
悪く働けば「分かっちゃいるけどやめられない」のスーダラ節になる。

このような人々が身の丈で本音で見据える現実において鍵になるのが、「スキゾ人間」か「パラノ人間」か、ということである。

「スキゾ人間」にとっての継続は、活動そのものではなくて、一貫性を何に求めるかという高コンテクストな問いであり、それを見出すことこそが最大の課題となる。
目的そしてその探求の一貫性が、あれもこれもという手段の多様性と並行を必要とし受容する。
一方、
「パラノ人間」にとっての継続は、活動そのものであり、かつそれにオートマチックに専念することであり、創造性を失っても同じことを繰り返し続けてしまう危険性が問題で、それを回避することこそが最大の課題となる。
手段の一貫性へのこだわりが、手段の自己目的化につながり、目的を見失った状態で異なる手段を軽視し排除する。





「パラノ・ゲーム」の非創造的な継続性の弊害その日本の場合



私が社会人として関わった企業社会の事例で説明しよう。

堤清二氏は旧西武流通グループを「生活総合産業」に改革して、まさに「スキゾ・ゲーム」を苛烈に進めたことでバブル期のそしてそれ以後の日本の生活文化に多大な影響を与えた。
この場合、「生活総合産業」というコンセプトが目的の一貫性であった。
何でもかんでも手を出していたのではなく、あくまで西武流に「生活総合産業」を具現化しようというトップの熱意が末端の社員はおろか下請けディスプレイ企業の担当課の私たちにも浸透していた。
だからその一貫性は、相性よく恊働した「スキゾ人間」たちが共有するものでもあった。

一方、「パラノ人間」にとっての継続が、創造性を失っても同じことを繰り返し続けてしまう危険性につながる事態とは、具体的にどのようなことだろうか。
新商品を横並びで打ち出す家電メーカー大手とその資金提供を惜しまないできた銀行の例がこれに当たるが、「パラノ人間」の非創造的な継続志向の弊害に至る「パラノ人間」の日常的な生態を説明したい。

日本の場合、欧米や中国に比べて集団主義が顕著で、とくに、集団を身内で固める「家康志向」が一辺倒化する時代と重なると、弊害が極端に極まっていく。「パラノ人間」の非創造的な継続志向は、自分たちの慣れ親しんだことを続けたいだけでなく、自分の帰属する集団や組織の身内だけでやりたいという排他性や閉鎖性とセットになっている。
これは端的に言って保身を優先するからであり、外部ブレインとして権威者や著名人を招聘することや企業同士、組織と組織の恊働は保身をむしろ促進するからこの限りではない。
そうした排他性や閉鎖性は一つの原理であり、組織外部に対して対外的に現象する前からもともと対内的に現象している。

家電メーカー大手各社に共通したのは、<モノ割り縦割りの事業部門>の縄張り意識である。
縄張り意識は古今東西あるが、日本社会では独自の弊害に発展する。
日本社会では露骨な対立は回避されあっても非日常的であり、日常的には縄張り同士は相互不干渉である。こちらも干渉しないから、あなた方も干渉しないでくれ、お互い自由にやろう、という折り合いがついている。
こうした背景において、あるモノ事業部門長が巨大な設備投資をしたいと経営会議にかけると、他のモノ事業部門長は自分たちの求める予算に影響しないのであれば、どうぞご自由に、ただし責任は自分でとってください、と議論なしに認めてしまう。非採算部門の長がそんなことを言っても認められないが、今稼ぎ頭だったり過去長い間稼ぎ頭だったモノ事業部門の言うことであれば誰も文句は言わない。これが不採算部門が累積赤字を積み増すことの歯止めをなくした。
巨大設備投資の大ばくちの目論みがはずれた場合は、会社全体の問題になり他のモノ事業部門も影響を受けない訳がないのに、そこは稼ぎ頭部門の言わば不敗神話を共有していて議論にならない。
会社全体の経営会議なのだから、たとえば巨額な設備投資の大ばくちをいきなりせずに、生産をアウトソーシングして実験的な小ばくちをまずしてみてはどうか、といった修正意見が出たり、そういうやり方は他のモノ事業部門もやるべきだから会社全体の設備投資を戦略的に見直そう、といった全体最適を求める議論となっても良さそうな筈だ。ところが実際は、モノ事業部門長それぞれが、自分の縄張りを守りそこでの保身を図る部分最適を主張するだけだった。
ちなみにこれは、敗戦に至る過程でその犬猿の仲がより苛烈になった陸軍と海軍の関係に酷似している。

・<モノ割り縦割り>の縄張り同士の相互不干渉
 =仲が悪く協力して全体最適を求めようとせずに終始一貫、部分最適を求める

・身内で決めたことはダメでも頑なに続ける
 =身内と言ってもごく限られた中枢を担う集団

・自分たちの手段を自己目的化しそれ以外の目的設定が望ましくても聴く耳をもたない
 =論理的に矛盾していることを体裁良く合理的なごとく言いのけ
  異議を唱える者を排除する

この3点は戦前の日本の陸軍や海軍の共有していた。
陸軍の方は広く知られた事例が多いので、ここでは海軍のもっとも象徴的な事例を一つ上げておこう。
山本五十六長官ら世界の実情の知る幹部は戦艦よりも戦闘機を重視して空母を多く建造すべしと主張するも、大鑑巨砲主義が頑なに押し通された。その結末が、戦艦大和や戦艦武蔵の戦果を上げないままの沈没である。
戦後、海軍の幹部が、大鑑巨砲主義はいわゆる主義ではなく、実際は水兵の雇用の確保が理由だったと回顧している。
つまり、大鑑巨砲主義は、空母戦闘機主義と軍事力としてどちらが有効であるかの合理性をめぐる議論の結論とばかり考えられてきた。しかしその実際は、それは建前であって本音は水兵たちを喰わせていかねば海軍という肥大化した組織が温存できないことが理由だったと言うのだ。
これでは水兵のための海軍であり、海軍のための大鑑巨砲戦艦の巨額な血税を費やしての建造であり、その非合理性を身を以て証明しての沈没だったことになる。

私が思うに、空母戦闘機主義に舵を切っても空母を多く造り飛行士に職能訓練すればかなりの程度の水兵の雇用は確保できた筈である。私は、この海軍幹部の回顧もどこか腑に落ちないものを感じる。
巨大戦艦一隻の造船コストと空母一隻の造船コストを比べれば前者が圧倒的に高いことを考えると造船財界の思惑も作用していたのではないかと疑ってしまう。

いずれにせよ言えることは、
世間に流通する合理性をめぐる言辞は事の本質でないばかりか、
事の本質を隠蔽する脚色に過ぎないということが、
多くの人が軽信してしまったゆるぎない理屈ほど多い
ということである。

家電に限らない各業界のメーカーでは、<モノ割り縦割り>のモノ事業部門を前提にして「選択と集中」ということが言われた。
アメリカではそれが当たり前だと、いわゆる「アメリカ出羽守」たちは何かというとそれを錦の御旗にした。
しかし、アップル社がデバイスの<モノ割り縦割り>で経営資源の「選択と集中」をしてきただろうか。
任天堂がデバイスの<モノ割り縦割り>で経営資源の「選択と集中」をしてきただろうか。
両社ともに<コト割り横ぐし>でハード〜システム、ソフト〜コンテンツ、サービス〜オンウェブ・サービスを三位一体で各種のデバイスを使う生活を連携させてきている。その便利さ楽しさ、スムーズさ快適さというコトに経営資源の「選択と集中」をしてきたのは周知のことではないか。
私がこの質問をしてまともに応えようとした「アメリカ出羽守」は一人もいない。

結局、メーカーの経営幹部は、「選択と集中」という論理ではなく言葉だけを、<モノ割り縦割り>のモノ事業部門とその人員の整理の錦の御旗にしただけなのである。
ほんとうに創造的な経営幹部ならば、
<モノ割り縦割り>のモノ事業部門編成の体制を、
<コト割り横ぐし>でハード〜システム、ソフト〜コンテンツ、サービス〜オンウェブ・サービスを三位一体でデバイスを使う生活を連携させるコト事業部門編成の体制、ないしは異業種異業界のパートナー企業との恊働体制に再編する、
そういうリストラクションこそ目指すべきだった。

しかし、メーカーの経営幹部は<モノ割り縦割り>のそれぞれの事業部門の身内でできる「パラノ・ゲーム」しかしたくなかった。
<コト割り横ぐし>の事業部門横断的かつ異業種異業界との恊働を前提とする「スキゾ・ゲーム」はしたくなかった。
これは最も素朴で最も強固なメンタルモデルを縛る根源であり、それこそが大手メーカーのボトルネックであった。
これが、集団を身内で固める「家康志向」の一辺倒化と、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」の排除と時期的に重なり、やがて閉鎖性と排他性を強める形で相乗効果してしまった。

確かに不採算部門の整理は必要である。だから<モノ割り縦割り>のそれぞれの事業部門の「選択と集中」は合理性がない訳ではない。
しかし、経営実権を握る稼ぎ頭部門のやり方を最後まで見届けると、経営の立て直しができないで売上げ規模の小さい(経営実権のない)好採算部門を売却してたりする。頭打ちとなった稼ぎ頭事業部門への開発投資の何分の一でも回せば成長事業を開拓できる可能性があるにも関わらずである。
具体的に説明するのは憚るが、私が知る業務用デバイスで世界的シェアを獲得していた事業は、たとえばスマートホンのアプリケーションを同ブランドで打ち出すなどして一般生活者のカスタマーが利用しユーザー同士がネットワークしてそもそもの業務用市場ともリンクするなどのコト発想が十分できた。そちらの方が頭打ちのモノ事業よりも事業の投資効率とプロダクトの利益率が高い。
ではなぜそういう決断になったのか。経営実権を握る事業部門が自らの生き残りのために売却したということである。つまり、海軍の水兵の雇用のために大鑑巨砲主義をとった話と同じなのである。

じつはそのような、必ずしも経済合理性に則らないポリティカルな決断と経過はたくさんある。
たとえば、今はないスーパーのダイエーの経営が悪化した際、ローソンを売却したのだが、経済合理性からすればコンビニを主体に残してスーパーを売却すべきだった。スーパーの社員は競合他社の社員になるから雇用も守れた。けっきょくこれも経営幹部がスーパー幹部だったということだ。
コンビニのファミリーマートも旧西武流通グループのスーパーである西友の子会社として出発し伊藤忠商事に売却されたが、事業の成長性としては百貨店やスーパーよりもコンビニの方が高かった。つまり伸びしろがあった。百貨店を売却してもその社員は競合百貨店の社員になるだけだから、これも経営幹部が百貨店幹部だったから経営主体としてそこを残したということである。


たとえば、大手メーカーが短絡的にリストラを繰り返した空白の10年、20年、私は次のような提唱を繰り返したがまったくスルーされてしまった。
大手メーカーが有志社員の少人数グループでの起業を、資本金を半分出して企業ブランドを使わせて推進する。資本金の半分は有志社員たちが投入する。大手メーカーは成長事業の小さい種となる中小ベンチャーを希望退職社員の有志グループとして多発させ、それを連携することで成長事業の大きな種にまとめる。そういう中長期的な新陳代謝のダイナミズムを構築していく、というものである。
このやり方であれば、ハード〜システムづくりを得意とするベンチャーだけでなく、ソフト〜コンテンツづくりを得意とするベンチャーや、サービス〜オンウェブ・サービスを得意とするベンチャーも立ち上がった筈である。なぜなら、退職金から身銭を投入した彼らは絶対に事業を成功させるために自分たちだけではできないことができる必要な人材を独自に雇ったり恊働者として招き入れた筈だからである。

つまりは、私の考え方は、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」が一貫する「スキゾ・ゲーム」であった。
よって、<モノ割り縦割り>のそれぞれの事業部門の身内でできる「パラノ・ゲーム」しかしたくない経営幹部の、あくまで集団を身内で固める「家康志向」には受け入れられなかったのである。


「文化人類学の視角」からは、世の中というものが、言動の正しさや合理性つまりは<知>と直結しない次元で動いているということが見えてくる。




こんな今だから「文化人類学の視角」が役立つ(9:前半)
http://conceptos.exblog.jp/24566319/
につづく。
by cpt-opensource | 2015-10-13 04:00 | 発想を個性化する日本語論


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