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こんな今だから「文化人類学の視角」が役立つ(7:前半)

「文化人類学の視角」山口昌男著 岩波書店刊 発



こんな今だから「文化人類学の視角」が役立つ(6)
http://conceptos.exblog.jp/24539948/
からつづく。




文化の部分テキスト、その排除と開放



著者、山口昌男氏は、「Ⅶ 排除されたもの」を説き起こすに際してまずは「文化」について解説する。

「記号論の立場では、文化は一種の書かれざるテキスト(教則本)であるということになる。
 我々が政治、経済、法、芸術、都市、織物等々に分割して理解するものは、全体テキスト(文化)を構成する部分(サブ)テキストということになる。
 全体テキストと部分テキストは様々な形で対応しあっている。

 ある文化に生きる人間は、これらの部分テキストを解読することによって行動の指針を得、また指針によって得たプログラムを実践(プラクシス)に移すことによって、一方では部分テキストを維持するとともに、それを部分的に書き換えるというかかわり合い方をする
 従って文化の部分テキストは常に二つの相反する方向性をもつ
 一つの方向は、部分テキストを閉鎖的に固定化させる力で、
 もう一つは開放に(筆者注:そして固定化とは逆の改革に)向かう方向である」

この「部分テキストを閉鎖的に固定化させる力」を重視する日本型集団志向が、
「家康志向」(集団を身内で固定)である。
この「部分テキストが開放にそして改革に向かう方向」を重視する日本型集団志向が、
「信長志向」(自由に活動している個人を適宜に集団に構成)である。

日本人は集団志向とよく言われるが、ほとんどは「家康志向」のことに言及しているだけだ。
その理由としては、
まず、幕藩体制が260年も続いて「家康志向」が日本人の血肉になっていることがある。
実際には、徳川幕府もケースによっては例外的に「信長志向」の抜擢人事をしていたし、武家社会に対抗する町人文化においては血縁によらない実力主義の世襲を原則とした浮世絵や落語など「信長志向」の集団もあった。
よく言われる日本型経営の実態も「家康志向」と「信長志向」の合わせ技だったのだが、「信長志向」を自分で経験したり身近に見聞きしたことのある者がそもそも少なく、それがバブル崩壊以降、日本型経営の短絡的な全否定の中で一掃されたりリタイアしたりして企業社会から激減してしまった。
(ちなみに私自身は、フリーランスの外部ブレインとして複数業界の複数大手や省庁の外郭団体や自治体の仕事を「信長志向」の集団恊働においてしてきた。それは私が著名なスーパースターだったからではなく、私のような立場役割の者は東京の大手企業ばかりでなく地方の中小零細企業でも活動していたのである。つまり企業社会全体の体質が今日とは大きく異なっていた。このことは本項の最後で触れたい。)

出版業界やファッション業界などもともと「信長志向」のフリーランス活用で成立してきた特定業界と、ゼロからスタートして原理的に「信長志向」が当たり前の新興ベンチャー以外の、日本の一般的な企業社会の大方としては「家康志向」が一辺倒化し一事が万事に徹底されてしまった。
官僚社会もバブル期までは民間活力を活用する民活を進めて「信長志向」を取り入れていた。しかし今は産官学共同という名の「家康志向」が官僚社会主導で拡張してしまった。
かつての民活ではプロジェクトごとにその課題に応じて多様な立場の民間セクターが関わったのに対して、今の産官学共同では先にプロジェクトが想定する身内で固定されその体制で対応できる課題が設定されるから、両者は似て非なるものである。
その本質をつけば、目的に応じて手段(集団)を講じる「信長志向」に対して、手段(集団)に応じて目的を限定する「家康志向」というパラダイムの違いである。しかし、企業社会も官僚社会も学校社会も地域社会も日本社会全体が「家康志向」一辺倒化したために、それがふつうでまともであり、「信長志向」は秩序と安定を乱す余計な波風を立てるものと看做されるようになってしまった。


まずは、文化についての基本的な知見を整理しておこう。


「1940年代のはじめ、チェコの美学者J・ムカジョフスキーは、詩を例にとって、
 文化には規範、流行、美的機能という三つのレベルがあると主張した。

 規範とは、固定した部分テキストであって、法などが最もよい例である。
 流行は、服装や、趣味、知的な分野におけるパラダイムのように不動の部分を残しながら、しかも新しい要素をつけ加えて行く
 美的機能の部分は、規準から理解可能な範囲で離れた表現行為のレベルである。このレベルには奇矯な服装、アヴァンギャルド芸術、時には悪趣味すれすれのグロテスクな表現が含まれる」

ここで、以下のことに留意しておきたい。
法のような固定した部分テキストを典型例とする「規範」は、それがそのように固定されている原因なり理由が法の主旨としてありその結果として生じているため、Aが原因でBに結果するという因果律にのっとっている。
モードのような不動の部分を残しながら新しい要素をつけ加えて行く「流行」は、コードを構成するセットで循環するから、Aがある時Bもあるという共時性にのっとっている。
奇矯で突発的でさえありうる「美的機能」は、いま、ここで、この場に関わる人々にとって最大の意義をもちえる、という縁起にのっとっている。「規準から理解可能な範囲で離れた表現行為」ということは、場を原因とする結果という因果律と、規準がある時それにそうものがあるという共時性を同時に踏まえることから、因果律と共時性が渾然一体の縁起にのっとっていると言える。日本文化の代表例としては、本歌取りや見立てが「規準の応用」という意味で「因果律と共時性が渾然一体の縁起」を体現している。


「ある文化がその中に生きる人にとって理解可能であるためには、基本的には記号の組み合わせから成っていなければならない。
 記号単位は、文化によって設定の仕方が異なっている

 言語を例をとると、それは音声の組み合わせから成っている。人間が発することのできるあらゆる音声が言語の記号的単位となるわけではない。音声の中である一定の音声だけが、意味の担い手(筆者注:有意味音)となることができる。このような意味の担い手の最小単位になる音声を音素=フォニームと呼び、音声(フォネティック)から区別する。
 例えば、rとlは英語で二つのフォニームになるが、日本語では区別しないから一つのフォニームということになる。

 音声に関するこの見方は文化現象にも適用され、特定の文化体系を構成する文化素といったものを考えて、エミック(フォニームの形容詞形フォミニックに由来)と呼び、
 文化の外側から見て規定していくような要素=エティック(フォネティックに由来)から区別する。

 部分テキストは、起こり得るあらゆる現象の中で、意味の担い手となることのできるこの文化素(エミック)と考えることができる。(中略)
 部分テキストは、無意味なものをあらかじめ排除した記号を組み合わせてまとまりある秩序をつくる
 小説も、詩も、都市も、儀礼も、つまり文化を構成している部分テキストのすべては、こうした記号の内包と排除の産物である」


音素(フォニーム)の絡みでは、日本語とポリネシア語だけが母音主義、母音が有意味音である言語である。
他の世界の言語はすべて子音が有意味音である子音主義だ、ということは私たちの想像以上に様々な物事に大きな影響を及ぼしている重大事だ。
母音主義であるがゆえに、七五調などの母音の一致や数で韻を踏む、という秩序をもった歌謡や詩そしてダジャレが展開している。
さらに、本来子音主義の漢語や英語を母音主義の音読みやカタカナ読みにして導入してしまう、といった日本人ならではの他に類例のない異文化吸収のダイナミズムも展開してきている。
みな「記号の内包と排除の産物」と言えよう。


「同じことは社会についても言える。

 これまで述べてきた一定の記号を排除するという文化の成立の根源にかかわる仕組みは、
 『ウチ』(秩序=情報)と『ソト』(反秩序=混沌)という二分法の形で、論理の礎を提供する


 一人の人間のアイデンティティが安定しているとき、この人は『ウチ』の秩序に自動的に従っている。
 しかしその実感を得るため、この人は絶えず排除される事や物、人を再生産しなければならない。

 ここに社会における排除の原則が働き始める」

そもそも「ウチ」と「ソト」という二元論は、空間概念として出発している。
ということは、定住社会とともに発生したと考えていい。
人類全員が移動民である段階で、家族と家族以外の者という概念はあったが、両者を身<内>と<他所>者といった「ウチ」「ソト」二元論では分別していなかったと考えられる。<部族人的な心性>は人間関係においては自他未分化を特徴とするから、その延長で家族と家族以外の者も漂泊バンドという集団の中で未分化だったと考えられる。
そして漂泊バンドには縄張り的なものがあったが、それは定住しての占有を意味しないから、定住民のような固定的な「ウチ」「ソト」概念には結びつかなかったと考えられる。
(ちなみに、定住するようになった部族が形成した集落において、女ばかりで集住する建物と男ばかりで集住する建物がある展開がある。この場合、固定的な集落の「ウチ」「ソト」概念が自分たちの部族と他の部族という部族関係に直接反映するが、家族と家族でない者に固定的な家の「ウチ」「ソト」概念が対応していないのだから、それが「身内」「他人」的な分別に反映するには至っていない。)

よって「ウチ」による「ソト」の排除ということは、定住民および定住社会の文化ならではの部分テキストとして形成されていったということは間違いない。

日本人の<社会人的な心性>は人類普遍の<部族人的な心性>をベースに温存して形成されてきている。
よって、
「家康志向」(集団を身内で固定)
「信長志向」(自由に活動している個人を適宜に集団に構成)
という<社会人的な心性>のベースおよび起源も人類普遍の<部族人的な心性>にある。

そして、
「家康志向」のベースとなる<部族人的な心性>は、
「ウチ」による「ソト」の排除を起源とし、定住民および定住社会とともにその文化として発生
した、
「信長志向」のベースとなる<部族人的な心性>は、
「ウチ」「ソト」概念がない移動民および移動社会の段階を起源とし、つまりは狩猟採集民の漂泊バンドとともにその文化として発生
した、
と考えるのが自然である。


「他所者」とは単なる「他所」=「ソト」の者ではない。「ウチ」にいる「ソト」から来た者のことを身内同士で呼ぶ呼称である。
つまり主体として、「ウチ」を構成する定住社会とその構成員が前提になっている、そういう言葉である。

ここで定住民および定住社会にとって「他所者」には二通りいることを思い起こそう。
一つは、他所の定住社会の定住民。
いま一つは、定住社会の間を行き来している移動民。
前者がある定住社会に来訪する場合、同質性から利害の競合や役割の争奪を生じやすい。地元のサッカーファンからすればホームグラウンドに現れた敵チーム、敵チームのファンからすれば他所に遠征したアウェイ戦を想い浮かべれば分かりやすい。
一方、後者がある定住社会に来訪する場合、異質性から利害の協調や役割の分担を生じやすい。部族社会では、来訪神という概念があり、現代でも素朴な庶民社会では遠来の旅行者を歓待する感受性が世界中で一般的だ。それは遠来者がけっして住み着こうとせずに去ることが前提になっている。

転住民は、未開の地に転住した場合、そこに定住民がいなければ誰の縄張りでもないのだから「他所者」ではありえない。定住民がいたならば彼らの縄張りを侵す「侵略者」であったか、あるいは彼らから土地を租借した「植民者」であったかした。いずれにしても、もともとの定住民や定住社会からすれば転住民が展開した領域は、もはや自分たちの縄張り=<内>とは言えるものではなかった。よって、この場合も「他所者」という呼称は当て嵌まらない。
転住民は定住民から見て異質な存在である。ここで、植民された民は新たな定住民であって転住民ではない。転住民とは、定住民を植民した「植民者」のことであり、事が一段落したら新たな開拓地へと去ってしまう。「侵略者」についても、事が一段落したらさらなる前線に転戦してしまったり、長いタイムスパンで俯瞰するとその征服は進駐であり撤退で切り上げられていたりするところに転住民としての性格が認められる。
転住民は移動民から見ても異質な存在である。転住民は時に未開地に向かうべく交易航路を開拓するがそうしたベンチャーな移動と、周知の交易航路を定期的に辿るルーチンな移動とは、まったく次元の違う営みであるからだ。

移動民が移動民と移動の道中や移動先で遭遇した場合はどうなるか。
たとえば人種や言語の異なる遊牧民族同士、陸路の隊商同士、海路の交易船同士が遭遇して対立が生じた場合、まず戦闘になったと考えられる。
隊商は山賊と闘う戦闘集団であるとともに容易に山賊に変容した、交易船も海賊と闘う戦闘集団であるとともに容易に海賊に変容したという。
戦闘を繰り返した遊牧民が帝国化したのは、騎馬民族として移動力と攻撃力があったことが大きいが、威信財でもある家畜が移動しながらも際限なく蓄積可能であり戦利品として急速に積み増していけたことが土台になっている。山賊や海賊と違って敵対した相手を打ち負かしたり圧倒した場合、配下に組み込んで行く、そういうダイナミズムがあったと考えられる。

こうした移動民にも、定住民の「ウチ」による「ソト」の排除に匹敵する「生存と防衛の本能に根ざした鍵となる部分テキスト」があった筈である。
それは何なのだろうか。
ざっくりとこういうことが言えまいか。

遊牧民のような家族や親族といった血縁関係を主軸とする移動民の集団や組織の場合、排除の部分テキストを、定住民のように「ウチ」に対する「ソト」という空間概念ではなくて、それとは無関係に「身内」に対する「他人」という関係概念において展開した。
よって、ある部族がほかの部族に勝利しての支配は、「身内」に「他人」をとり込むという形で展開していく。勝った部族の長が支配者であるのは当然として、その主要な配下として負けた部族の者も抜擢された。移動しながら膨らんで行く部族の構成員を管理するには不可欠なことだったと考えられる。そして、たとえばモンゴル帝国(1206年 - 1634年、約400年間)や清帝国(1636年 - 1912年、約270年間)の征服王朝は、被支配民族である漢人も将軍や高官として実力主義で採用している。皇帝は漢人の美しい妃を娶ってもいる。
これは日本人のたとえば幕藩体制と対照的である。「ウチ」の譜代大名に対する「ソト」の外様大名が幕府の「身内」に対する「他人」という関係概念に直接反映している。そして、日本の周縁に封じて中心の江戸表に人質を住まわせ遠路はるばる参勤交代させて管理するも、領内のことは家父長制の「お家大事」主義を徹底させた自主管理に任せた。中央から管理者が赴任してくる中央集権ではない封建制という地方自治だった。そして幕政に、親藩は将軍を輩出するも関与せず、譜代大名があたり、外様大名は参加できなかった(ただし幕末に向けて変化)。親藩は言わば「同族会社の一族取締役」、譜代大名は「古参の事業部長」、外様大名は「課長止まりの中途入社組」という形だった。ここにも、「ウチ」に対する「ソト」という空間概念が「身内」に対する「他人」という関係概念に直接反映している。

遊牧民が帝国を築いた際も、元来の移動する遊牧生活を続けた庶民と、定住化した支配階層がいた訳だが、定住化した支配階層は、移動民ではなく、さりとて征服地にもともと暮らしていたような定住民でもない、まさに転住民と呼ぶべき存在だったことに留意したい。

中国王朝としての元(1271年 - 1368年、約100年間)は、政治制度や政治運営の特徴においてはモンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、行政制度や経済運営の特徴は南宋の仕組みをほぼそのまま継承した。やがてその元は、華南に建国された明の北伐にあい中国の保持は不可能と見切りをつけ都の大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した。「ソト」からやってきて結果的に「ソト」に去ったモンゴル人の中国王朝の支配階層は、常に臨戦体制にあった「転戦転住民」であったと言える。
そもそもモンゴル帝国は、常に前線に「転戦転住民」を送り込むことで、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する版図を占めた。その中国での展開が中国王朝としての元なのだから、それはもっともなことである。

清は満州で建国され、1644年から1912年まで約270年間、中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝となった。都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。明の支配下の満洲に住む女真族の統一を進めたヌルハチが明から独立して建国した後金国を前身とする。ヌルハチは八旗制を創始して女真族=満州人の中国征服の基礎を築いた。八旗は社会組織・軍事組織で、後に満洲人・モンゴル人・漢人を旗人として含む形に再編され清の支配階層を構成する。

徳川幕府の旗本八万騎の体制と清の八旗制は構造的に似通っている。
徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者を旗本と言う。世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。元では、旗本は戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味した。日本の戦国時代では、旗本は、家臣ではなく臣下の礼をとり軍事的に従属する幕下層と別格の、主君の指揮下に属する直属部隊の家臣を意味した。譜代の家臣を中心に編成され、戦闘時には主君の本陣備を構成した。
大きな違いは、
清が中央集権で被支配民のモンゴル人や漢人までを支配階層にとり込んだ
のに対して、
徳川幕府が地方自治を認める封建制で譜代大名を幕政に参加させなかった
ことである。
そこには、
移動民である遊牧民の交易主義が「身内」と「他人」という人間関係を流動的に捉えるパラダイム
と、
定住民である農耕民の農本主義が「身内」と「他人」という人間関係を「ウチ」と「ソト」という空間概念で固定的に捉えるパラダイム
との大きな相違がある。

戦国大名という支配階層は「転戦転住民」として騎馬民族的な側面が濃厚にあり、徳川幕府の身分制度を除いた社会組織・軍事組織が八旗制と似通ったとして自然である。
一方で戦国大名が騎馬民族的な側面が濃厚だからこそ、徳川幕府は幕藩体制によって彼らの移動の自由を奪いその「転戦転住民」としての主体的な志向と能力を実際的に無力化したのだった。

清は最終的に欧米列強と日本による反植民地化と漢民族による武装蜂起で内部崩壊し(但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない)、清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)が退位して滅亡する。満州族の支配階層は雲散霧消する。建前的には溥儀が日本の傀儡国家である満州国を樹立する。これに従った者を満州族の支配階層とすれば、中国という「ウチ」に満州という「ソト」からやってきて満州という「ソト」に戻ったことになる。つまり、彼らもまた元のモンゴル人の支配階層と同じく「転戦転住民」であった。
徳川幕府の幕藩体制においても、藩主は幕府の命令一つで封地替えに応じなければならず、幕末には各藩が長州征伐に駆り出されるなど、藩主以下藩の武士という支配階層は建前的には、居城を軍事拠点として常に臨戦体制にある、言わば主体性を剥奪された「転戦転住民」だったと言える。



身内でも他所者でもない「転住民」、ウチもソトもない「転住社会」



定住民の典型が「農耕民」であり移動民の典型が原初では「狩猟民」、後世では「交易民」であり、農耕民族、狩猟民族、交易民族などと言われるように民族性と重なる。つまりその民族に生まれ落ちた者は受動的に志向性が宿命づけられている。
これに対して、転住民の典型は「開拓交易民」や「転戦転住民」(戦争も交易に含まれる)であり主体的な参加者本人の志向性が反映していることがその本質である。

たとえば、日本の戦国時代の信長は家臣とその一族郎党を「転戦転住民」として組織して天下統一寸前までいった。しかし、他の戦国大名は版図の拡大は図っても本拠の移動には消極的だった。家臣が転戦する場合も一族郎党は本拠において言わば単身赴任したが、信長は居城の移転に際して単身赴任を厳格に禁じた。
信長の抜本的に転住する志向性は、他の戦国大名が農本主義だったのに対して交易主義だったことも関係している(伊勢湾経済圏から大阪湾経済圏までを繋いで国内外の交易ネットワークの一大拠点とする)。いずれにせよ、信長がこの志向性を選択し家臣もそんな信長を選択した主体性の帰結である。他の戦国大名はこの志向性を選択せず、その家臣もそんな大名を選択した。同じ民族、同じ武士でも「転住民」にはなる者とならない者が出てくる。

たとえば、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍、十字軍である。実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、正教会も敵として遠征の対象となったり、イスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなった。個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模な十字軍も多く存在した。また、巡礼で聖地に到着した騎士や兵士が現地でイスラム勢力との戦闘に参加するのも、聖地にそのまま住みついた騎士らや聖地で生まれ育った遠征軍の末裔らが作る十字軍国家が継続的にイスラム諸国と戦うのも十字軍である。十字軍の熱狂は民衆にも伝染し、民衆十字軍は東上の途中でユダヤ人を各地で虐殺し、ハンガリー王国やビザンツ帝国内で衝突を繰り返しながら小アジアに上陸した。その実態は「転戦転住民」だったと言えよう。

たとえば、現在の中国の礎となった共産党の人民解放軍は、国民党との第一次国共合作が破綻した後、内戦に突入、劣勢により「長征」という大撤退行動を強いられた。国民党政府と日本の間で戦争が起こると(日中戦争、支那事変)第二次国共合作して日本軍と大陸各地で闘った。こうした経過から人民解放軍は「転戦転住民」だったと言えよう。

たとえば、古事記に出てくるヤマトタケルの西征そして東征して果てる人生は、ヤマト王権草創期の不安定な国情における「転戦転住民」の存在を示しているとも解釈できよう。

このように古今東西の歴史において、「開拓交易民」「転戦転住民」といった転住民の活躍は特に激動期において重要なファクターになっていることは間違いない。
そして、転住民を規定するのは民族や職能ではなく、あくまで本人の主体的な志向性であって、同じ民族や同じ職能人でもそうなろうという選択する者もいればそうなるまいという選択をする者もいる。よって、転住民に定住民から転じた者や移動民から転じた者がいて、逆に転住民から定住民に転じた者や移動民に転じた者がいた。つまり、転住民の実態は、言わば出入り自由のボランティア集団、ベンチャー集団だった。






「転戦転住民」の場合、帝国の主君の命令で否応無く前線に派遣される家臣や兵隊など100%本人の主体性と言い切れないが、「開拓交易民」の場合は、本人の主体性なしには先ず参加しないだろうし、嫌なら参加を免れる選択肢もあった筈だから、本人の主体性の純度は高いと考えて良いだろう。

「開拓交易民」は基本的に市場化されていない未開の地を目指すのであって、それは平和裡の交易機会を開拓する平和的な志向性をもつ。
その点は、「転戦転住民」が基本的に敵地に乗り込み戦争したり武力で威圧して敵を支配するという軍事的な志向性とは大きく違う。
とは言え彼らも、行く先々の土地や港の定住社会の定住民の側からすれば「流れ者」「他所者」として遭遇する。当然、「ウチ」による「ソト」に対する排除や抵抗も受けることになる。
しかし彼らは彼らの側から定住社会を見ていた訳で、そこには彼ら独自の「生存と防衛の本能に根ざした鍵となる部分テキスト」があった筈だ。
私は、縄文時代に日本列島に稲をもたらしたのは「開拓交易民」であり、弥生時代に日本列島にやってきた渡来民には、平和裡に鉄器をともなった稲作をもたらして縄文人と恊働した「開拓交易民」と、軍事的に鉄製武器と騎馬軍団に物を言わせて縄文人を支配した「転戦転住民」とがいたと仮説している。
後者の経緯は、低コンテクストな(文脈依存性の低い)軍事であるから想像しやすく、遺物や遺蹟から直接的に推察できる。
しかし前者の経緯は、高コンテクスト(文脈依存性の高い)異文化の交流であるから直接的に想像できず、遺物や遺蹟から仮説を立てて多角的な検証を試みるしかない。
検証は浅学非才の私の手に負えないが、先達の諸説を踏まえた仮説立てなら私にもできる。
私は、縄文人と恊働した「開拓交易民」の系譜が出雲族に連なり、縄文人を支配した「転戦転住民」の系譜が卑弥呼の邪馬台国やその弟の吉備津国が従えた国々に連なる、と仮説している。そしてヤマト王権は、最終的にその両方を圧倒したり撃破した「転戦転住民」による征服王朝として誕生した、と仮説している。
そして、ヤマト王権の初期政権と出雲を盟主とする連合の対立は、領土国家体制に対するところの環日本海の脱国家的な交易ネットワークの対立であり、国家基盤としての農本主義に対するところの反管理貿易としての交易主義の対立であった、と仮説している。
2000年の時間を超えて、出雲の動向は現代の新自由主義やグローバリズムと重なるようだが、それは皮相的な見方であって、現代のような機械論的な「交換」経済ではない。「贈与」経済が濃厚に絡んだ、オオクニヌシを盟主とする交易ビッグマン同士の同盟交易であった点で人間論的かつ文化論的なものであったと考えられる。



「開拓交易民」の未開の地での原住民へのアプローチが具体的にどのようなものだったかは、ケースバイケースだろう。しかし原理原則的な大枠があったのではなかろうか。
たとえば大枠としては、「ウチ」と「ソト」の境界域として<異界との重なり領域>をお互いで設ける、ないしは相手に設けてもらう、そして現在のような「交換」を前提とした低コンテクストな取引ではない、文化的に高コンテクストな祝祭としての「贈与」のやり取りをする、といった古来より人類が習慣化してきた古今東西に普遍的なやり方である。
(そうした推量は、遺物や遺蹟によるよりもむしろ、国際モーターショーの外車ブースの様相などが祝祭的要素を具体的に引き継いでいるのではないか、といった現代の見本市文化への着眼からもたらされる。)
このことの究明には多角的なそして歴史的に順序立てた検討が必要だ。

忘れてはならないのは、
「転戦転住民」は、少なくとも都市国家のような国の成り立ちの後に発生したのに対して、
「開拓交易民」は人類が漂泊バンドで狩猟採集の移動生活をする中から発生ないし派生した。
つまり転住民の本質は「開拓交易民」を起点にしている
ということである。

まず、人類が狩猟採集の移動民ばかりの時、漂白バンド同士の遭遇において物々交換が何らかの形で発生したのだろう。しかしそれが果たして物々交換自体を目的とした交易だったかと言うと疑問である。最初は相手が何を持っているか分からなかった筈だから、自分たちの貴重な物を差し出しあって争いを回避する行為だったのかも知れない。そして遭遇者と仲良くすること自体が楽しみや娯楽になりそれが婚姻関係を成立させるための祝祭となっていったのかも知れない。
こうした部族間の祝祭的な交易は、お互いの縄張りの外れの<異界との重なり領域>で行われたと考えられる。

一般的に私たちが言う交易は、人類が定住化し出して(回遊域の縮小固定化を含む)そこでの狩猟採集や農耕をすることによって、手に入るものと手に入らないものが固定化し、異なる生産物を得る定住民同士の物々交換が必要かつ有効な手立てとなって一般化した。

交易の端緒とされるものに隣接する定住民の部族同士の沈黙貿易がある。それが行われた<異界との重なり領域>で、定期的に相対して物々交換が行われるようになる。やがてこの時空が貨幣経済の浸透と村や街の発展とともに、定住社会の内部の特定の場所で<市>として定期的に出現するようになり、各地の<市>を回遊することで生計を立てる商業者や芸能者が登場してくる。
同時に、<市>が立つ村や街から離れた僻地の家々までを巡回訪問することで生計を立てる行商も登場してくる。
<市>の時空は多様だが<異界との重なり領域>性と言うべきものを何らかの形で備えている。たとえば門前市やそれから展開した門前町は、寺社境内という<異界>へ日常的な世界からの橋渡しをする領域になっている。
また、どこからともなくやってくる行商は、たとえば僻地の住人にとって貴重な情報源だった。彼らが山の彼方の遠くで何が起こっているのかを語って聞かせたのが四方山話だった。つまり行商は、今でいうメディア(media)という<異界との重なり領域>性を帯びていた。

歴史的には村や街という定住社会の発展があり、個々の人生的には行商から始めて行商を組織する問屋になったり店を構えて店売りに転じるなどの展開があり、移動民の定住民化は社会全体としても個々の人生としても進行していった。
また、都市の消費地・生産地・流通拠点としての発展にともない、移動の距離と扱う商品と扱うロットが多様化していった。都市の消費財における生産流通が近隣、近郊、広域、遠隔地で分化し多様な商売に分業されていく。
こうした専門分化にともなって移動というものがどんどん定期的で画一的なルーチンワークになっていく。拠点を朝出て夜には帰るような距離や周期が短い移動だけでなく、遠洋漁業のような拠点を出て数ヶ月をへて帰るような距離や周期が長い移動においても、その集団に参加する単身移動者の家族が拠点において定住民化していくようになる。
同じことが、歌舞伎などの芸能民でも起こってくる。旅回りの一座の中から大都市に定住して観客を年中呼べる人気一座が登場してくる。

移動民のほとんどがこうした定住拠点をもった単身移動民の規定の行路を行き来するルーチン集団になっていくとともに、私が関心を寄せる転住民「開拓交易民」というあえてベンチャー的な移動をする者は少なくなっていく。都市のニーズは必ずしも遠隔地の新しい交易拠点の開拓によらなくても、都市に向けた新しい商品の導入や開発によって掘り起こされるようになっていく。
つまりは、「開拓交易民」は地理空間を転住して開拓する者から、知識分野を転住して開拓する者へ、そのベンチャー・スピリットが継承されていった。
知識分野を転住して開拓する「開拓交易民」は、本人が地理空間を移動するかしないかは本質ではなく、もはや交易=ビジネスに限らないそれぞれの知識分野で機会開発者であるかどうか、文化創造者であるかどうかが問われる存在となった。


日本の場合、江戸時代の長く続いた鎖国と幕藩体制で国レベル、藩レベルで生産と消費の内向きの成熟が進展したために、移動民は定住社会に完全に飲み込まれてしまった。
ルーチンワークをする移動民や定住社会に飽き足らない者が転住民「開拓交易民」になろうとした訳だが、彼らが地理空間を転住する「開拓交易民」として一般的に存在しえたのは、身分と居住地が固定されない信長政権の中世までのことである。農民出身で行商に携わり武士になった秀吉のような庶民が珍しくなかった。

信長とその家臣が戦国武将の中では秀でて転住的であったが、同様の勢力は他にもあった。信長が敵対した一向一揆の門徒、鉄砲生産する境内都市への流入者やそこを拠点とした聖、自由都市堺の鉄砲商人や国際商人がそれだ。
彼らにとって拠点の本質は定住拠点性ではなくて交易拠点性やそれを保全する自衛拠点性であったから、事情が許しさえすれば代替拠点への転住という選択肢は常にあった。そこで信長は寺社勢力に対してはその勢力を削ぎ、商人勢力に対してはその勢力をとり込んだ。

寺社勢力は治外法権的な境内都市を拠点に宗教共和国的存在となっていた。フロイスは高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆の名を挙げている。根来寺は、鉄砲製造し鉄砲で武装する行人衆を擁した。根来寺は種子島の砂鉄(http://www.youtube.com/watch?v=CO4fv9E5OFM&feature=colike)の販売を、種子島との直通航路を開発した熊野船の熊野神社と契約して請け負っていた。販売実務に携わったのは諸国を遍歴した聖と考えられる。また根来衆と深い関係にある雑賀衆も鉄砲武装した傭兵集団だが、海運を営んでいて鉄砲の材料になる鉄や真鍮、黒色火薬の材料となる硝石などを入手したのではないかと言われている。根来衆と雑賀衆の信長への協力、離反、対決の経緯から、信長としてはとり込もうと最善を尽くしたように感じられる。宗教勢力としては弾圧しなければならないが、彼らを鉄砲をはじめとする軍需物資の商工民、その境内都市を商工拠点と看做していたのではなかろうか。当時、多くの有力寺社は京都など政治の中枢から遠くない場所で境内都市を形成し、政治的中立、軍事的不可侵に守られて商工業や金融の拠点として強い経済力を持つようになっていた。

信長は堺の国際商人を大名に取り立てた。象徴的な実力主義の抜擢で家臣の経済官僚化の端緒としたと考えられる。後の徳川幕府の身分制度、士農工商に照らせば最下級の商が最上級の士のトップクラスに引き上げられたことになる。交易主義の信長でなければ断行しなかったしできなかったことである。信長は伊勢湾交易から大阪湾〜瀬戸内海交易をとらえさらに国際交易をとらえて交易立国としての国造りを目指したと考えられる。
だが、信長短命のために、交易主義の国造りは進まぬままとなった。秀吉が天下統一し、信長の遺志として朝鮮出兵に及ぶ。しかし交易主義の信長が目論んだ唐攻めは秀吉が目指したような朝鮮征服だったのかは疑問だ。朝鮮半島の東岸、南端、西岸に有効な国際交易拠点港を開港させて租借地を獲得する言わば後世の列強型で反植民地化を目指したのではないか、と個人的には推察する。

結局、日本の歴史は、江戸幕府を開いた徳川家康の、農本主義の幕藩体制と幕府が管理貿易を独占する鎖国に進んでしまう。
1604年に朱印船制度が創設され、それ以降1635年まで、350隻以上の日本船が 朱印状を得て海外に渡航するに留まった。

私が注目するのは、秀吉は九州征伐のおり、ポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが多数の日本人を奴隷として購入していて、イエズス会にカネを払うから日本人奴隷を連れ戻し放免せよと述べていて、これをイエズス会に取り締まらない日本が悪いとはねつけられ、秀吉が激怒して伴天連追放令を出すに至ったことである。
秀吉は言わば人道主義的な立場から邦人奪還への協力を求めたのにキリスト教徒がつっぱねたことで、イエズス会の本質的な使命は布教ではないと悟ったのではなかろうか。
また、後にこんなことがあった。
シャムの使節が国書において徳川幕府に、敵対するカンボジア軍に日本兵が混じっているから取り締まってもらいたいと要望したのに対して、幕府は返書で「<海外に出かけて商売を営むような輩>はどうせろくなものではなく、利益のためには何でもやるだろう。そんな連中を取り締まるなどもってのほかで、罪に応じ貴国で自由に征伐したがよかろう」と冷たくあしらっている。
先ず幕府には、カンボジア軍に雇われた傭兵が、シャム軍に協力した山田長政率いる日本人町の<海外に出かけて商売を営むような輩>であるという認識があったことが分かる。
そして、農本主義で定住社会を前提とする幕府の価値観からすると、お上の管理の及ばぬ形で本人の自己責任=主体性において海外に向かった転住民「開拓交易民」は蔑視されるべきものだったことがよく分かる。

シャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した山田長政が有名である。しかしその出自は不明で特定されない。
アユタヤ王朝には日本人武士を傭兵として用いる強いニーズがあり、フロイスの記録するシャム人とカンボジア人が日本人奴隷を大量に購入したという中に武士もいて、長政も奴隷として売られた過去をもったのではないかとも想像されている。
長政は、地理空間を転住する「開拓交易民」としてベンチャー・スピリットを体現している。


「人間は物事や現象を理解するのに、ある一定の事物を、定義に合致するものとそうでないものとに分け、合致するものに序列または上下の関係をつける。
 右左、高低、美醜、善悪、近遠、速遅、乾湿、明暗、等々である。

 『ウチ』の大部分は、毎日の生活感覚では前の語に結びついている。
 男女という概念化も、こうした社会という部分テキストの中で、排除の原理の基本的な枠組みとして使われる」

そのような「ウチ」の世間のしがらみや常識や空気から、私たちは「ソト」の世界に出れば解放される。それと引き換えに、場合によっては奴隷に身を落とすようなリスクも負うことになる。
しかし、それでも地理空間や知識空間の定住民や移動民としてルーチンワークを続ける日常と人生に飽き足らず未開の地に向かう転住民「開拓交易民」は、いつの時代でも、そしてどこにでも異端として変わり者として存在する。



現代日本の企業社会にも「開拓交易民」は存在する



私の関心は、定住社会に暮らす定住民でも、定住社会を行き来する移動民でもなく、新たな交易行路を開拓したり新たな生産基地や流通基地や消費基地としての定住社会を開拓する転住民である「開拓交易民」にある。

「開拓交易民」のような志向性の持ち主は、どんな民族にも、どんな職能人にもある程度の割合で必ず存在してきた。
そして、現代の日本にも「開拓交易民」と呼ぶべき人々が新しい地平を切り拓き新機軸を打ち出す有志として存在する。

たとえば、大航海時代に欧州から南アメリカに侵攻していった者、北アメリカ東岸に建国したアメリカに移民しさらに西部を開拓していった者、長崎に商機を求めて欧州から来った国際商人、まったく文化の違う欧州や中東そして反日感情のある中国や韓国からわざわざ日本の大相撲にやってきた外国人力士たちが想い浮かぶ。

そのような志向性の者は元来、人類が狩猟採集をする移動民として出発した時から発生ないし派生していた筈である。
移動のついでに交易(交流)をもした者から、交易(交流)を専業とする者が発生し、その中から専ら新しい交易(交流)機会の開拓ばかりをしてまわる者が派生した筈なのである。


脳科学の知見によれば、哺乳類の脳が快楽物質の分泌を最大化するのは、成功確率50%の捕食活動の事前・事中・事後の総計だという。
この場合の失敗確率50%であるが、それは捕食するつもりが逆に自分が捕食されてしまう死を意味する。
つまり、哺乳類そしてマンモスを狩った原始人にとって捕食活動は、ただ獲物に逃げられて捕獲できませんでした、では済まない生死を賭けた活動であり活動だったのである。

この話の前提として、安全基地が確保されていることが条件となる。
確率50%の成功とは捕獲した獲物を安全基地にもってかえるということに他ならない。
確率50%の失敗とは捕獲に成功したとしても獲物を安全基地にもってかえる途中で自分が捕食されてしまうことを含んでいる。
ちなみに、成功確率100%は、誰がやっても捕獲に成功し必ず獲物を安全基地にもって帰ってこれるということだが、脳の快楽物質の分泌は最小化する。
また、失敗確率100%は、誰がやっても捕獲に成功しないか、獲物を安全基地にもって帰ってくることができない、ということだが、この場合も脳の快楽物質の分泌は最小化する。
最悪なのは、そもそも安全基地が確保されないことである。自分が捕食されずに帰ってこようとしても安全基地がなければ帰りようがない。このような最悪な事態が日本の企業社会に発生している。

私は、バブル期までの企業社会とバブル崩壊以降の企業社会を体験し、今日に至る日本の企業社会と日本全体の低迷の根源は、国民に安全基地がなくなったことだと考えている。
まず、派遣社員などの非正規雇用の割合が拡大したが、それは安全基地を失った就労者の拡大に他ならない。そして正社員もリストラ圧力が慢性化して会社が安全基地ではなくなっている。当然、誰もが保身とサバイバルを最優先するようになった。
一方、経営は既定路線と割り当てた役割とノルマを就労者に徹底しそれらからの逸脱を嫌う減点主義で臨むようになった。組織は機械論化し人材は機械部品化し、仕事のほとんどが、後から参入してくるより若くて給料の安い人材でも代替可能なものになってきている。

一部の幹部候補的な正社員は、成長事業を立ち上げろ、ヒット商品を打ち出せと檄を飛ばされる。
しかしかつてのように、集団の中長期間にわたる試行錯誤や10の内3つ当れば立派な3割打者だといった寛容が許されない。
これでは安全基地がないのと同じだ。脳の快楽物質の分泌は滞る。
そのような挑戦はできればさせられたくないと思う。挑戦しなければならない時は競合他社も考えそうな無難なアイデア、経営陣の誰もが賛成してうまく行かなくても責任を問われないで済むアイデアで済ます。たとえ獲物が捕獲できなくても安全基地に帰ってこれるようにだけはするのである。

バブル期までは、社会全体で正社員の比率が高く、正社員にリストラ圧力は一般的には無かった。
そして経営は正社員だけでなくパートの主婦にまで「企業家として全体最適を考えてほしい」「既定路線への異論反論はどんどん言ってくれ」「異端や変わり者がいた方が刺激になって発想が偏らなくていい」などと公言していた。ビジネス評論家や企業研修も口を揃えて「内向き・上向き・後ろ向きはだめだ」「オープンマインドで対等で誠実なパートナーシップで、部門横断的に、異業界異業種の他社とも積極的に恊働せよ」と言った。経営トップ自らが社内にない発想や歯に衣着せぬ諫言を求めて外部ブレインを直轄して活用した。
そんなことが東京の大手企業だけでなく地方の中小零細企業まで仕事の思潮として、あるいは仕事の文化として流布浸透していた。
小難しい理屈などなかった。
サントリー創業者鳥井信治郎氏は「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」と言った。
役職や年齢、性別を越えて気軽にわいわいがやがやと話し合う「ワイガヤ」会議は、別段ホンダの専売特許ではなかった。たいていの会社で、職場であるいはアフター5の飲ミニケーションで日常的に自然発生していた。

しかし、バブル崩壊からの空白の十年、二十年と言われた歳月の間に企業社会の大方においてすべてが逆になった。
日本の企業社会は、就労者が安全基地を失ったことを根源的な背景として、脳内麻薬の分泌を最大化する組織や制度から、最小化する組織や制度を前提する方向にシフトチェンジしてしまった
結果、バブル崩壊から後、知識空間における転住民「開拓交易民」がバブルをピークに減衰の一途を辿った
そして、仕事を恊働する文化にあった祝祭性が消え去った


私がこの手の話をすると、昔を知らない若い世代は「それは昔は日本経済が右肩上がりだったからですよ」などと分かった風に返す。
しかし、戦後の焼け野原の時にこそ、戦後復興をそれぞれに目指す「開拓交易民」は頭をもたげはじめたのだった。
失うものが無くなった、誰もがどん底からの再出発で、奪い合うものもなければ足の引っ張り合いをするにも引っぱり下ろす先がない、そういう時はみんなが上を向いて自然といろんな物事を融通し合って助けたり助けられたりした。そんな世間の人間関係こそが「安全基地」だったのである。
バブル期は、戦後の焼け野原の時とは逆に経済的な豊かさを誇り、一億総中流意識。中間層が崩壊して下層が拡大した今日からすれば夢のような時代だ。一般的にはそんな世間の経済状況が「安全基地」だった。

いずれにせよ何らかの形で「安全基地」が確保されていると、生死を賭けた捕食活動のような冒険的な挑戦を想念し、実際に行動に移し、それを後から思い起こして脳内麻薬の分泌の総計を最大化しようとする者が必ず出てくる。ルーチンワークの移動民や定住民に飽き足らない「開拓交易民」のことである。
終戦直後の昭和20年代の戦後復興期と1980年代後半のバブル期は「開拓交易民」が大量発生するピークだった。
両時期の間のオイルショックまでの高度成長期とそれ以後のバブルに至る豊熟消費期も、企業家精神とオープンかつ誠実で対等な恊働が一般ビジネスマンに基調的な仕事の思潮や文化として共有され続けた。つまり「開拓交易民」を受容し活用する恊働環境が常にあった。
これが日本型経営が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と世界から評価された時代の背景である。


(定住民的な)終身雇用が日本型経営の特徴と言われるが、それは企業側の経営の話であって、正社員の側の話としては転職や起業や独立がむしろ今より活発で終身雇用を最初からあてにしている者は少なかった。たまたま辞めないでいたら定年になっていた、そんな感じの人は多かったがしがみついた訳ではない。最後はどこかに就職してそこで定年まで働けるということが安心材料=安全基地になって、容易に(転住民的な)冒険ができたのだ。

意欲的な人材ほど(転住民的な)流動性が高かった。高い流動性を背景に、建前としての人間関係は「ウチ」「ソト」二元論であっても、本音としての人間関係は「ウチ」も「ソト」もない、信頼しあえる仕事仲間かどうかで決まった。会社の内外に信頼性の高い仕事仲間のネットワークをもっているかどうかが本人の実力としても評価された。
こうした人間関係は、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」を活性化した。

好きな仕事をまじめに遊ぶ、そんな力身なく意欲的なビジネスマンが多くいて、理屈抜きに、何か新しい面白いことをやろうと日常的に仕事に臨んだ。
そんな気運から、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」でも採り上げられた、個人の資格で参加する勉強会が日本中で自然発生した。何か新しい面白いことをやりたい人間が集まりプライベートに刺激しあい、気が合った者同士はオフィシャルにも恊働した。
私がそうした場で出合った仲間は間違いなく、それぞれの業界や専門において未開の地を目指す「開拓交易民」だった。

思い出すのは、彼らはみな好きな仕事を選んだ人たちだった。
好きな仕事に関して企業の大小、給料の多寡、組織に帰属するかしないかなど関係ない人たちだった。
それほどに好きなことだから未開地を目指す「開拓交易民」でいる主体性を持ち続けることができるのである。




こんな今だから「文化人類学の視角」が役立つ(7:後半)
http://conceptos.exblog.jp/24549496/
につづく。
by cpt-opensource | 2015-10-10 04:00 | 日本型の発想思考の特徴論


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