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日本人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>をベースに形成されたこと(1)

「日本史から見た日本人[古代編]」渡部昇一著 祥伝社刊 発


(「1章 神話に見る『日本らしさ』の原点
  -----古代から現代まで、わが国に脈々と受け継がれたもの」の検討)



<部族人的な心性>と<社会人的な心性>の概念対照ポイント


原初の<部族人的な心性>は自然発生的な大枠として人類普遍であった。
有史以降、<社会人的な心性>が形成されるに際して、文明差や文化差が生じていく。

私の理解は、
中国人は「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」で<社会人的な心性>を形成し、
     それに回収されない<部族人的な心性>を捨象していった。
欧米人は「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」で<社会人的な心性>を形成し、
     それに回収されない<部族人的な心性>を捨象していった。
そして日本人は<部族人的な心性>をベースに温存しつつ
             「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」によって、
        中国由来の「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」を導入し
        欧米由来の「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」を導入し
        その時代時代で調和的に統合した<社会人的な心性>を更新してきた
というものだ。
共時性とは、Aがある時、Bもあるという原理。易や陰陽、漢方医療の原理。
 因果律とは、Aが原因になってBに結果するという原理。一神教の契約や因果応報、科学の原理。
 縁起とは、共時性と因果律が渾然一体のこと分けする以前の森羅万象の原理。いま、ここで、居合わせた者にちなむ縁やゆかりの原理。)

現代の世界状況は、

中国由来の「共時性にのっとった<意>起点」の<社会人的な心性>は、
公助に通じる天意や互助に通じる人民の総意よりも既得権益者や個人の利己的な<意>が増長し、全体の調和が乱される状況に陥っていて、

欧米由来の「因果律にのっとった<知>起点」の<社会人的な心性>は、
国家主権や国民主権や基本的人権そして文化の多様性といった人間論(高コンテクストの暗黙知や身体知も重視)よりも、文化の画一性を強要しても経済合理性を押し進めようとする機械論(低コンテクストの明示知のみを偏重)が増長し、全体の調和が乱される状況に陥っていて、

日本独特の<部族人的な心性>をベースに温存した
     「縁起にのっとった<情>起点」の<社会人的な心性>は、
起点となる<情>ポジティブで利他的、社会貢献的に創造的なものよりも、
         ネガティブで利己的、社会破壊的に非創造的なものが増長し、
         全体の調和が乱される状況に陥っている、
と言える。

こうした見方をするならば、
世界全体の不条理と混乱と、日本国内の不条理と混乱がグローバリゼーションによって連動している、その仕方が人間論の現実として見えてくる。
そして、
世界の人々が不条理と混乱を脱する方途として、それぞれの立場や関心事において、日本人の特徴である「縁起にのっとった<情>起点の<社会人的な心性>」のポジティブな側面とその成果に注目したり期待している、という関係性が見えてくる。
それが妥当な解決手段であることは、その具体的成果から明らかであるが、何よりも人類原初の<部族人的な心性>を世界の人々が深層心理において共有していて、それゆえに具体的成果を理屈なしに納得するということが大きい。

ただ、現状の日本および日本人は、ネガティブな<情>起点の側面の方がまさっているために、ジャパンアニメや日本食、カワイイ・ファッションやもったいないといった文化の実践と発信以上の貢献はできていない。
世界と日本の不条理と混乱を収束するには、私たちはポジティブな<情>起点の側面を盛り返すだけでなく、現代的にかつ国際的に再構築した文明の実践と発信をしていかねばならない。
それは、日本人同士のいわば身内で協力するだけでなく、日本の文化と文明に共感しその現代的かつ国際的な展開可能性に理解を示す外国人ともネットワークして推進していくべきだろう。

本論シリーズでは、こうした観点から鍵概念となる<部族人的な心性>と<社会人的な心性>についての以下の概念図を、渡部昇一著「日本史から見た日本人[古代編]」の内容を検討しつつ点検する、という作業をしていきたい。

日本人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>をベースに形成されたこと(1) _f0270562_17255466.jpg




日本人の発想思考の特徴を考察するための歴史観


「日本の一大特徴は、有史以前にすでに同一言語の民族が成立していたことであり、歴史がはじまったときは、すでに日本人は自分たちを一民族と考えていたことである。(中略)
 『古事記』や『日本書紀』が出来たころには、少なくとも、天孫族も出雲族も姉弟(きょうだい)の神々の子孫であり、同族と考えられていた(中略)。
 『歴史は民族の共通の記憶』であると言われるが、日本民族の共通の記憶は記紀万葉をもってはじまる。そこに書かれてある話は、今から見れば神話も多いが、当時の人にはリアルに、つまり現実的に考えられていたのであるから、これからが日本人の歴史である」

私も、関心事が日本人の発想思考の特徴であるため、考古学的な事実の子細な寄せ集めからの類推よりも、著者のような歴史観を踏まえたい。


「記紀万葉に登場する者は、神も人間も、日本語を語り、考え、感じ、怒り、悲しむ。だからわれわれは、『日本人』と関係あるかないかわからない原住民からはじめないで、明らかにわれわれの先祖であり、われわれの言葉を語った者たちから考察をはじめてゆきたい」
と著者が語るところが、
私の関心事の、
 日本人は<部族人的な心性>をベースに温存しつつ
 「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」によって、
 <社会人的な心性>を形成した
という古代における経過に重なる。



文化人類学的な垂直軸と日本の「タテ社会」と「カミ概念」


「日本人はどこから来たのか。
 高天原(たかまがはら)から高千穂に降臨したという『古事記』の記事を昔の人は垂直に考えて、日本を『中国(なかつくに)』つまり、高天原と地下の黄泉国(よみのくに)との中間にあると考えていた」

中国の中国は、東夷・西戎・北狄・南蛮の周縁に対して中心であることを誇示するもので、水平に考えている。
こうした水平の中心志向は、中国に限らない。

「古代ギリシアでは、全世界の周囲をオケアノスという大きな川が流れていると考えていた。
 これが英語でいう『大洋(オーシャン)』の語源であるが、これに対して、この地の真ん中の海は地中海(メディテラネウス)であった」

日本神話の垂直軸は、物語を担った時間軸であることが決定的に重大である。
著者は「国産み神話」に注目する。

「注目すべきことは、日本という中国(なかつくに)が地理的に造成された神話に、矛や柱が出てくることである。(中略)
 男女の神が国を造ったということからして性的連想があるのに、特にその矛の先から滴り落ちたものから島が出来たということで、そのイメージは決定的である。(中略)
 勃起した男根(ペニス・エレクトス)、その精液、さらにその連想から生ずる柱や巨木に対する信仰は、シャーマニズム(日本のいわゆる神道は比較宗教学ではシャーマニズムとして分類される)にとっては、本質的なものであった。だから、日本ではカミを一柱、二柱と数えるのである」

「シャーマニズムにおける神木崇拝や柱の崇拝は、天と地をつなぐものとしての象徴性とか、そこに、父なる天と、母なる大地の間に起こる創造活動においても、人間の場合のペニス・エレクトスに相当するものとして、巨木や巨柱や高い峯などが類比され、そこに神性が認められたのであった」

以上は、人類原初の普遍的な<部族人的な心性>に他ならない。


「これは古代のゲルマン人の神話にも、そっくりそのまま見られるところである。
 ゲルマン人の元素神(ウアヴーゼン・ゴット)のガウタズ(Gautaz)は、古高ドイツ語giozzun、古英語geotan、ラテン語fundereと同一語源で、『注ぐ者』、もっとはっきり言えば『精液を注ぐ者』という意味で、創造の神である。(中略)
 イギリスのアルフレッド大王家の系図にも、ちゃんとこの神様が先祖神として出てくる」

「さらに注目すべきことは、古代ゲルマンにおける巨木崇拝である。
 日本では神社などに行くとシメ縄を張った神木があるのでおなじみであるが、それはキリスト教に改宗する以前のゲルマン人においても同じことであった。
 ゲルマン人を改宗させたカトリックの布教者(中略)であるポニファチウスが、ガイスマールにおいて、ゲルマン人の異教徒の崇拝の対象だったトールの神の神木を切り倒してみせて、キリスト教の神の力を示し、ヘッセン地方を一挙にキリスト教化したことは有名な話である」

以上は、
 欧米人は「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」で<社会人的な心性>を形成し、
 それに回収されない<部族人的な心性>を捨象していった
ということである。
キリスト教は、一神教の唯一神がすべての原因であり、結末は神との契約を守ったか破ったかの因果応報であることなど、因果律にのっとった<知>に他ならない。

「古英語で『この世』のことをミッダン・イアルド(middan-geard)と言う。今の英語にそのまま直せばミッドル・ヤード(middle -yard)、つまり『中庭』である。
 この中庭は水平的な概念でなく、垂直的な概念であったことは、それが、つねに天上界と黄泉国(すなわち闇の国)の中間にある世の中の意味で用いられていることによっても明らかであり、まさに、わが国の意味での『中国(なかつくに)』であった。

 特に北ゲルマン人の神話では、天上にそびえる世界木(Yggdrasil)と、その根本にあるこの世と、その地下にある闇の国(Nifheim)とに分けているが、根本構造は同じである」


日本人は<部族人的な心性>をベースに温存しつつ
 「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」によって、
 <社会人的な心性>を形成した
ということをもっとも根源的に物語っているのは以下のことである。

「このような(筆者注:垂直軸の)宇宙観を持っているところでは、社会全体の意識がタテに働くとしても当然である。
 つまり、系図とか(筆者注:垂直軸は物語の時間軸を担う)、上下とかに対する意識が敏感なのである。
 日本の皇室の系図は、どんどんさかのぼっていくと神武天皇に至り、それから先は神様となる。神武天皇の曾祖父がニニギノミコトで、この方が天から下って来られたことになっており、その祖母が天照大神であり、この方は太陽神と言われている。そのご両親が例のイザナギ、イザナミの二人の神様で、日本の島をお造りになったのである。
 神様の系図と、天皇の系図の間には切れ目がないのだ」

著者は、ここが欧米人には理解できないとしつつ、欧米人にもあった<部族人的な心性>と、<社会人的な心性>を形成する際のその捨象を指摘する。

「古代イギリスのオーサンブリヤ王朝や、ウェスト・サクソン王朝(アルフレッド大王家)の系図は、途中から神様になってしまうのである。
 どの部族にも氏神があり、王はその氏神の子孫であった。
 第一、王という英語キング(king)は、古い形ではkinyngと書かれ、『血族(kin)の頭(ing)』という意味にすぎなかったのである。国家がとりもなぞさず血族集団であって、系図がものをいう点では、古代日本と古代ゲルマンは同じだったのである。

 ただヨーロッパのほうでは、神と人間が切れていることを中心とする宗教が広まり、さらに、水平的『中国』思想を持つギリシャの文化や、ローマの帝国が支配的になったので、ゲルマン人は、古い宗教と宇宙観を捨てたのである」

現代世界を席巻するアメリカ型グローバリズムも、このヨーロッパの水平的「中国」思想およびそれに基づいた帝国主義に由来する。
欧米諸国と中東諸国の対立は、同じく一神教を踏まえた水平的「中国」思想同士の宗教対立という側面も否めない。
日本の文明と文化が垂直的「中国(なかつくに)」思想であり、もしそれに基づいた文化多様性を認めた共生主義を前面に押し出すならば、キリスト教圏ともイスラム教圏とも異なる次元での調和をもたらす可能性が高い。
それは、機械論でもなく、宗教的な原理主義でもなく、人類普遍に深層心理に今も息づく<部族人的な心性>に根ざした人間論に立ち返るということだ。



日本のカミという言葉の語源について、著者は有力と考える2つの説を紹介し、両者は必ずしも相反しないとする。

「二、すべての尊いもの、上位に位するものを『かみ』(上)と称する説(新井白石、伊勢貞丈、本居宣長、久米邦武、ハーン、アストンなど)」

「四、『隠身(かくりみ)の略(中略)であって、『現身(うつしみ)』に対するものであるという説(大石千引、大槻文彦など)」

さらに今の日本語の意味合いを検討しこう触れる。

「いわゆる神さま。氏族の先祖は氏神になる。これは(筆者注:空間軸を時間軸に置き換えれば)氏族の源という意味であるから、川上のカミと同じ使い方であることは一目瞭然である。

 このようにカミを見ると、天皇が現人神と呼ばれていたこともよく理解できよう。
 つまり天皇は神の直系の子孫という意味で神であるのみならず、すべての氏族の源(かみ)の上に立つ者(かみ)である。またいろいろなカミ、つまり大臣(おみ)とか頭(かみ)とか守(かみ)とか督(かみ)とかの上(かみ)の意味でもある。
 また、いっさいの先祖の霊(かみ)を祭る大司祭長(かみ pontifex summus)でもある。

 ここで注目すべきことは、『死者はカミ』であるということである。
 死んだ者は生きている者の上にあって、生きている者を見守っているといった感じである。
 ここから神道の祖先崇拝、日本仏教の先祖の祭りが出てくるのだ。
 そして昔はこの宗教感覚がとりもなおさず政治感覚であり、政治組織でもあった。(中略)
 つまり、政治(まつりごと)は祭事(まつりごと)で、文字どおり祭政一致であったのが日本の古代であった」

「この『祭る』という日本語の語源は『待つ』と関係がある。
 英語でもwaitは『待つ』にすぎないが、wait on と言えば『(ホテルでボーイなどが)給仕する』という意味になる。このwaitは語源的にはwatch(目覚めている)に関係していて、そこからwait on は、『客の求めるところを注意深く見張っていて、すぐに給仕する』という意味になるのである。
 日本語の『祭り』も、(中略)油断なく、細心に、心を込めてサービスするという意味である。

 下は奴婢から上は天皇に至るまで、つねに自分より上(かみ)の者にwait onすること、つまり、『恭しくかしずくごと』が、日本の社会というもののアルファであり、オメガであったのだ。(中略)
 今言ったようなカミとマツリゴトの世界であったから、社会構造がタテになったのである」

「タテ社会」というと、上の者にへつらい下の者をこきつかう社会みたいなネガティブな印象があるが、上は天に、下は地獄に通じる中国(なかつくに)に暮らす住人の、天網恢々疎にして漏らさずの秩序空間であるとポジティブに捉えることもできよう。

「昔のゲルマン人も同じようなやり方をやっていたのだが、キリスト教やローマ法が入ってきて、ヨコも強くなったのである。
 タテ社会が特殊なのでなく、古代のそれが今なお続いていることが、善かれ悪しかれ驚異なのである。
 日本の場合は、『神概念』は、とりもなおさず『社会の構造原理』であった




日本人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>をベースに形成されたこと(2:間章)
http://conceptos.exblog.jp/24529115/
へつづく。




     
by cpt-opensource | 2015-10-02 09:00 | 日本型の発想思考の特徴論


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