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中国人の「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」を探る(7:結論)

「中国人とはいかに思考し、どう動く人たちか」中島一著 河出書房新社刊 発



(6:間章)
からのつづき。



(4:間章)と(5)の内容を整理して図解すると以下のようになる。

中国人の「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」を探る(7:結論)_f0270562_1252516.jpg


(<部族人的な心性>の人間関係の特徴である「自他の未分化性」は、日本人の「世間」において
 対象を内向きにばかりとらえれば、集団を身内で固める「家康志向」に向い。
 対象を外向きにもとらえれば、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」に向かう。
 ともに「縁起にのっとった<情>起点」の展開を示すことが日本人の集団志向としての特徴である。)
 

本項(7:結論)では本書の内容にある中国人にとっての<情>概念を日本人の<情>概念と対比的に検討したい。
以上の図解を踏まえると理解がより明快化になると思う。



中国人は主体との関係、という意味での人間関係において全てを捉えている



前項(2)で検討した、儒教の他宗教とは異なる「天人合一」の思想を振り返りたい。

「現実的な生き方を考えれば、人間が幸福になれるか否かの最大の関心事は、人間関係の持ち方となります」
儒教では、
「この人間関係は、どのようにすれば上手に、また皆が納得して良好に保たれるのかを体系づけることに重点がおかれていました」

「儒教は、宗教と切り離された教えと考えられています。
 しかし孔子は、現実主義的な秩序体系に入る前提として、そこに集中していくため、宗教観が入り込まないための思想的な仕掛けを施しています。
 それが、『天人合一』という思想です」

「孔子においては、天と人とは一体で、人は天の命を受け地上に生まれ、地上で役割を果たして天に帰るという天と人との合一性が前提になっています。
 したがって、人は天が与えた仁(筆者注:他者本位の思いやり、自己本位の思いやりは恕)という使命を果たし、やがて天にもどるのだから、天のことは考える必要がない。地上において、地上の事柄について、(知性と感情と意志)を尽くして誠実に生きれば、やがて天にもどれると説くのです」

人が存在する時、その人がいずれ戻る天(場所ではなく宇宙原理や万物の根源のようなもの)も存在している。
つまり人間関係絡みの事柄として、Aがある時Bがある「共時性」がそもそもの前提からしてある。

「ユダヤ教は、天にさからい、人間が神を裏切ったので、人間には原罪があり、神に許しを請わない者は神の裁きを受けることになる、つまり神と人間世界は分離されています(筆者注:天人合一と真逆)」
これは、Aが原因になって結果Bが起きる、の「因果律」的な捉え方だ。
そしてキリスト教でも、人間同士の人間関係がどうだこうだというややっこしい因果は、そもそも人間の原罪に起因するのであって、それを許す罰するの結果は神が下すことになっている。つまり、確定性決定論にある。

一方、「共時性」的な捉え方は、Aがある時Bもある、と、Cがある時Dもある、が同時並行で現象するから、起こる現象としてはBであってもいいしDであるかも知れないという偶有性も内包する。つまり、不確定性非決定論にある。


以上を整理するとこうなる。


中国人のパラダイム(考え方の基本的な枠組み)では、
天(超越的なるもの)と人間の関係も「共時性」的な捉え方をして、
人間同士の関係も上図のような対立軸を並存させる「中庸」「共時性」的な捉え方をして、
人間と自然の関係も陰陽を並存させる「易」「共時性」的な捉え方をする。

中国人のパラダイムは、主体との関係、という意味での人間関係において全てを捉えている
ここで重要なのは、主体とは、それぞれに<意>をもつものである、という大前提だ。
<意>は志向性であり、創造的であったり破壊的であったり、共生的であったり攻撃防衛的であったりする。つまり、正負の思いや気力のエネルギーとしても捉えられる。
そう捉えると、儒教だけでなく道教も、自分が自分自身をどうする「自自」の主体との関係、自分と他者をどうする「自他」の主体同士の関係、そういう人間関係において全てを捉えている、と分かる。

最も尊重される「中庸」の考えは、対立する2軸の<意>を並存させて軸をふる。
「中庸」は、異なる意見の人間同士にも、「一国両制」のような制度同士にも当てはまる。
注意すべきは、日本人や欧米人は、どちらの意見が正しいか、どちらの制度が理想的かを巡って対立していると無自覚的に決めつけてしまうことだ。ところが中国人は、どちらの思いや気力のエネルギーが社会的に強いかを見定めようとしている。そして彼らの現実主義は、現時点では強いのはこちらだからこちらに乗ろう、と判断する。その判断はけっして永続的な決定ではない。



欧米人のパラダイムでは、
神(超越的なるもの)と人間の関係は、原罪という原因の結果、人間が神に許しを請うべき存在となり最後に裁きをうける、という「因果律」的な捉え方をしている。
この神は擬人的であり、かつ人間との関係は主従関係ないしは支配被支配の関係にある。これは一つの対立関係に他ならない。いなアダムとイブは仲良しだったから、原罪によって表面化した人間にとって最初の対立と言ってもいい。

この原罪は、神が食べることを唯一禁じていた「善悪の知識の木の実(いわゆる禁断の果実)」を食べてしまった過ちによる。
つまり、神と人間の関係は、<知>を万全に有する神と、本来は少しも有してはいけなかった者との関係だった。それが、不完全に<知>を得てそれまであったある種の十全さを損なってしまった者との関係になってしまった、と言える。

人間同士の関係も、この<知>が中心テーマになる。
人間は、不完全な<知>を十全なる理想に近づける営みをする者となり、それを弁証法の正反合のプロセスで追い求める。同じ営みをして異なる考えをもつ者同士が対立し対決する、つまり異なる<知>同士が対立し対決する。
互いが互いを神のように裁き合う。

人間と自然の関係も、対立的、対決的に捉えられる。
自然は、人間が挑戦しこれを征服し手なずけるべき対象とされる。



日本人のパラダイム(考え方の基本的な枠組み:無意識も含める)では、
神(超越的なるもの)は自然そのものだ。大本は擬人化した何かでもなく、自然や宇宙の原理でもなく、春夏秋冬の山川草木の森羅万象だ。神=自然と人間との関係は未分化である。
そして、人間同士の関係も、自他未分化である。共生も対立も自然の内での営みに変わりはない。
人間がつくった人工でさえも、自然との関係そして人間との関係は未分化を理想としてきた。
人工と自然の関係は、いわゆる「エコロジー」の持続可能循環型といった「低コンテクスト」機能論にとどまらない。なるべく自然をそのままに木肌を生かすなどの感覚論、樵が木を切る時に木や山に祈るといった行為の意味論と連携して果てしなく「高コンテクスト」の世界を作っている。
その「高コンテクスト」な認知表現パターンは、ファクトリー・オートメーション黎明期に工作ロボットに名前をつけて子供のように世話をしたり、なぜか人形ロボットの人間らしい身のこなしや感情反応にこだわる現代の日本人の感性にまで至っている。

では、日本人にとって、神=自然と人間、人間同士、神=自然と人間がつくった人工、人間と人工の未分化性という関係は何によって構築され実感されているのだろうか。
それは、そうした縁や結びという森羅万象の捉え方、つまりは縁起にのっとった<情>に他ならない。
この<情>こそが、自他の未分化性、人間と自然の未分化性、人工と自然の未分化性を可能にしている。
この<情>は、<部族人的な心性>の中核であり、<部族人的な心性>をベースに温存して形成された日本人の<社会人的な心性>の中核でもある。無意識に浮上する情感や無自覚的にそなわった情緒であると同時に、意識的に情感や情緒を大切にする祈りや思いやりや想像力といった認知表現の総体でもあり、日本人の生活文化の核心となっている。


ここで注意しなければならないのは、同じ漢字を使っているが、

主体との関係という意味での人間関係において全てを捉えている中国人の言う<情>は、自他分化と人間と自然の分化の後に成り立ち、人間関係に由来する意識的な「感情」に重点ないし起点があると言える

一方、日本人の言う<情>は、自他未分化と人間と自然の未分化の内に成り立ち、神=自然への畏怖や愛着が根っこにあったり全体を包括していて、人間と自然の一体化により感受される無意識的な「情動」に重点ないし起点があると言える

ということだ。
よく日本文化は日本食や木造建築など自然のままの素材を活かすとか、和菓子や着物の絵柄など自然の色形を活かすと言われる。しかし日本人が古来、活かそうとしてきたのは本質的には、それらを目にしたり食べたり触れたりする人間の「情動」の快楽=「快の情動」だったように思う。それは意識的に感受する以前に、無意識的に「快」の身体反応が起こってしまうことの重視である。それは人類普遍の<部族人的な心性>であり、日本人はそれをベースに<社会人的な心性>をつねに現代化してきた。

たとえば、近年、<世界の共通語>になってしまった「カワイイ」「モッタイナイ」も、なぜ世界の人々の共感を得たかと言えば、その意味するところが理屈なし=思考なしに「カワイイ」は「快の情動」を呼び起こし、「モッタイナイ」は「不快の情動」呼び起こすからではないか。

日本美術史において「和様」という言い方がある。これは平安中期から鎌倉時代にかけての様々な文物の日本様式を意味する、中国様式の「唐様」に対する言い方である。その実質は、原形は飛鳥・奈良時代に唐から受容された文物を日本の風土と日本人の感性に合わせる形で改良することによって成立した文化様式だった。よってそれを日本的で美しいと感じる感受性は、そもそもは中国的との対比を前提とし意識的だったと言える。しかし徐々に、自律的に日本的な美しさが求められていく。その一つの達成を戦国・安土桃山時代の千利休の「茶の湯」に見ることができる。

たとえば、利休は井戸茶碗が大好きで、最後は長次郎 の黒楽に至るが、非常に作為のない、すっとした茶碗を好んで使ったという。長次郎の創始した楽焼は、日本中世の伝統的な高火度の陶器とも、中国の陶磁とも異なる独特の焼き物で、侘び茶とともに発展したもっぱら茶の湯のために造形するという目的の焼き物である。長次郎は天正年間に千利休と知り合ったと推定され、それまで国内の茶会で主流であった精緻で端正な中国製の天目茶碗などよりも侘びた風情を持つ茶道具を好む利休によって、轆轤(ろくろ)を使わず手捏ね(てづくね)で成形を行なう独自の工法が認められた。楽焼の素地は、決して良質のものとはいえない地元の土を用いており、土を選ばないものであったという。
中国の茶文化が高級な茶葉の銘柄を競うのに対して、茶そのモノではなく、亭主が茶を点て客が飲むというコトに主眼をおいた「茶の湯」は、中国と同じパラダイムの枠内で差異を求めるのではなく、あくまで中国と異なるパラダイムを切り拓いた。ゆえに自律的に日本的な美しさの一つの達成と言える。
利休の「茶の湯」のもろもろは、すべて理屈無しに訴えてくる情感があり、それは意識して鑑賞するのではなく、その「場」に亭主とともに無心に浸ることで無意識的に感受するものであるように思う。それは、思考の介在する「感情」よりも、即座の無意識的な身体反応を伴う「情動」を重視した「身体性と情緒性が一体化した認知表現パターン」の結集に他ならない。


日本人の言う<情>は、日本人の自然観(神=自然=人間)の中で自然主義的に捉えることを特徴とするのに対して、
中国人の言う<情>は、中国人の人間関係観(天人同一、人間と自然は分化)の中で、人間関係論の理と一体で捉えることを特徴とする。

中国ビジネスが盛んになって、後者の中国人の物事の考え方・感じ方についての理解は、関心がある人々の間ではかなり深まっている。
しかし、前者の日本人自身の物事の考え方・感じ方については、振り返って古今の一貫性や東西の他国との差異を俯瞰することはあまりなされていない。

私たちは、中国人の異質性を本質的に理解するには、日本人の本来もっている独自性についても本質的に理解しなければならない。しかしそんなことはそれぞれ別々に直接的には困難であり、両国人の特徴を対比することで相対的に理解できる。
その際、両国人に長所と短所があるというよりも、同じ特徴がポジティブに出る場合とネガティブに出る場合がある、という捉え方が大切だ。
外国人とのビジネスは異文化交流でもある。お互いの特徴を知るだけでなく、そのポジティブな出方同士を化学反応させて、ネガティブな出方の悪しき化学反応をさせないのが基本である。
己を知り、相手を知ってこそ、お互いにとって有意義な交流や恊働ができる筈だ。



中国人の人間関係とそのつくり方



まず、著者の分かりやすい解説を抜粋していきたい。

「中国人は本能的に人々を2種類に分ける。その分類基準は、自分が固定的な付き合いをし、かつ絶えず連絡する人であるか否かである。
 中国人は、そのように強いつながりを保つことを『関係』のある人と呼ぶ。関係のない人は『没関係』の人と呼んでいる。(中略)

 『関係』のある人は、自分にとって強い仲間であり、協力しあうことをいつも能動的に心がけている。『関係』は社会的な磁場を形成し、中国人は磁場の上で活動する。
 『関係』は、中国社会の至るところで大きな役割を果たしており、『関係』をもたないと、中国社会では、生きていくことがむずかしいほど惨めな状況になる。(中略)中国人は、それを、社会的資産と考えている」

『関係』は質と量が問われる。質だけ追うと、時代の変化で質の価値は変動するので、それだけでは十分ではない。多面的に異なる分野の人たちとの『関係』づくりが必要で、量も大切な要素である。
 そこで、中国人は初対面の人に対しても、まず積極的に話し合い、話題をつくり、自分と相手の共通点を見つけて、『関係』をつくることが習性となっている」

「『関係』は、親しさの程度により、『自己人』『熟人』『外人』の3段階に分けて考える(『親友』『仲間』『外人』と分類する人もいる)。(中略)
 
 『自己人』は、自分と他人の区別がないほど一体化した関係である。家族や近い親族が基本であり、家族同様の付き合いがある人もここに入れて使っている。
 『外人』は、お互いに知って交流はあるが、社会的な一般的互恵関係の範囲内で維持されている関係である。
 自己人と外人のあいだに、このふたつの中間に位置する『熟人』がいる。熟人は、文字どおり熟してきた関係であり、外人が自己人に近づく過程でもある」

『関係』は、人間としてのの交流と経済的な関係の双方で成り立っている。
 単純な経済的取引の平等の関係から、貸し借りの関係献身的な援助関係などが、この『関係』の分類に対応している」


文化人類学的に言えば、
『外人』の関係=「単純な経済的取引の平等の関係」は、「交換」の関係であり、
『自己人』の関係=「献身的な援助関係」は、「贈与」のやりとりの関係であり、
これらの中間に位置する
『熟人』の関係=「貸し借りの関係」は、「交換」の関係から「「贈与」のやりとりの関係への展開過程、あるいは様子見の段階
ということになる。
そして、
中国人の言う<情>は、『熟人』の関係から独特に関わってきて、『自己人』の関係で独特に濃密になる


ここでおさえておきたいのは、
中国人の<情>「情理一体」である
ということだ。
「情」が人情に限定されるように、「理」も人間関係についての道理と限定していい。
道理とは社会化されたものだから、すべて<社会人的な心性>の枠組み内の話と言える。

(ちなみに、日本語の「風情(ふぜい)」は、日本古来の主要な美意識の一つである。一般的に、長い時間を経て大自然 によりもたらされる物体の劣化や、本来あるべき日本の四季が造り出す、儚いもの、質素 なもの、空虚なものの中にある美しさや趣や情緒を見つけ、心で感じるということである。そこから「風情がある」と言えば、自然とかもし出される良い雰囲気がある、その場の風景から自然と感じ られるなんとなく上品で美しい雰囲気、趣(おもむき)、味わいがあることを意味する。「風」も「情」も「趣」を意味する字である。全体として自然主義的な色彩が濃い。
 一方、中国語の「風情feng1qing2」は、「人情」や「思いの現われ」を意味し人間関係の表現に限定されて人間主義的である。
 たとえば、「还未解风情」でまだ人情を解しない、「卖弄风情引逗对方」で思わせぶりで相手に気を持たせる 、といった具合だ。
 蛇足だが、日本語にも中国語にも「情勢」という同義の言葉があり、「情」という漢字の意味が完全に自然主義だとか人情に限定されるということはない。ここでは、いわゆる<情>というものについての捉え方を論じている。)

一方、日本人の<情>は、人間関係についての情も含めて<部族人的な心性>を色濃く残存させていて、それが、近しい間柄になったかなろうとする相手に対して前提とする<社会人的な心性>にも色濃く反映させる。そして、そんな相手のことを後から振り返って、縁があった、とか、気があった、などとアニミズム的に表現する。
そこには人間関係についての厳格な道理は介在しない。だから容易に、やっぱり縁が無かったと覆されもする。またよく、あいつとは腐れ縁さ、などと言うが、それは縁があったと思ったら切れたり切れてると思ったらくっついたりという流動的な経過を言う。ちなみに中国語の一語で、腐れ縁を意味する言葉はなく、それを表現するには「难以断绝的不良关系」(断ち切れない良くない関係)と言うしかない。どうも中国人の言う「縁」は天が決めた決定論にあるため腐りようがないようだ。一方、日本人の言う「縁」は神=自然がもたらすもので四季のように移ろう非決定論にあるのではないか。


中国人の人間関係についての厳格な道理とは、何も儒教的なそればかりではない、
『関係』は、人間としてのの交流と経済的な関係の双方で成り立っている
ということから、むしろ経済的な関係の厳格な道理と一体であることを忘れてはならない。

そこには、日本と中国の個人をめぐる社会環境の違いが大きく影響している。

「組織は変動が激しく、支配層は絶えず変化する。(中略)
 中国は、人のつながりですべてが動いていくので、組織に入って安定することはあり得ない。人治の国といわれるごとく、人のつながりが法律さえ変えてしまう。だから、自分で頼りにできる個人的な人脈が命綱となるのだ。(中略)
 熟人を多数育てていかなければならないし、熟人との実務関係をくり返すことから、自己人を生み出していくのである」

蛇足になるが、「内」と「外」、「内」と「外」を区別する観念、「内」と「外」の間に「異界との重なり領域」を想定しそこが非日常的な場になることなどは、人類普遍の<部族人的な心性>である。
それが<社会人的な心性>に展開していく過程において、それぞれの社会の有りようが影響し、独自の「内」と「外」を区別する観念や「異界との重なり領域」の想定に文化差が生じる。
それが各国の母語と母国文化の構造、そして各国民の物事の感じ方や考え方の差異にも色濃く反映している。



中国人の「合情理法」と今の日本人の「合法情理」一辺倒化



中国人は「合情理法」だと言われる。
情(なさけ)が最優先で、次に重視するのが理(りくつ)で、法(ルール)は最も優先順位が低い。
ただし、この情(なさけ)は日本人の想像するものとは性質が違う。
私は、「合情理法」の情は人間関係からみの人情のことで、理は人間関係の道理=経済的な関係の道理のことと理解している。

ちなみに欧米人は、「合理法情」だと言われる。

日本人は、「合法情理」だと言われる。
日本人は法(ルール)優先。ルールが理屈に合っていなくても法が最重要。
法を重視するのに理よりも情を優先するのは矛盾であるが、それは、一般的である組織人の日本人について言っていて、そういう現実は確かにある。「お家大事」意識からお上やお家の法は絶対に守る。しかし「お家の家臣としての保身」意識から、たとえ理屈に合っていないことも情実を交えてやってしまう。
相手が理屈に合わぬことをしてくれれば、こちらも理屈に合わぬことをするよ、という情のやりとりのことを、魚心あれば水心、とアニミズム的に表現したりする。
対立した者同士に言い分があり互いに相手が理屈に合わないと思っていながら結論を曖昧にしたまま対立を解消しようとするとき、水に流そう、というアニミズム的な表現をする。

中国人の日本人観はほぼ「組織人の日本人」についてである。
私の分類で言えば「家康志向」(集団を身内で固める)の日本人についての印象である。
もう一つの日本型の集団志向「信長志向」(自由に活動している個人を適宜に集団に構成する)の日本人にはあてはまらない。集団志向と個人志向という点を除けば、「信長志向」の日本人は、むしろ常に外向きに熟人を増やしその中から最善の自己人との関係を築こうとする中国人に近い。

中世以前の幕府や朝廷の管理貿易ではない遠隔地交易や海賊行為に出向いて中国人と取り引きしたり恊働したりした海人は「信長志向」だった。海賊行為は法を侵すものであるのは当然として、一般的な商船もいざとなれば海賊に豹変しうる圧力を示し合っての商取引をした。それはタンジュンな「交換」ではありえず「贈与」のやりとりであり、経済的な関係における情理一体が発展させた。つまり彼らは中国人と同じ「合情理法」だった筈なのだ。

「信長志向」は、江戸時代直前まで、織田信長の武家勢力、それと対立した境内都市や一向一揆の寺社勢力、自由都市堺の武器商人や国際商人など主要な勢力を構成して日本社会を牽引するダイナミズムとなっていた。信長は、自らと同じダイナミズムをもつ競合と敵対しこれを撃破し支配下におくことで天下統一の寸前にまで行ったのである。
しかし、江戸時代の260年に及ぶ幕藩体制において「家康志向」が日本列島の津々浦々の日本人全員の血肉になって、「信長志向」は時代の転換期や行政や商売の変革期に例外的に有志が登場したり抜擢される以外、特に支配階層においてあまり脚光を浴びなくなった。一方、江戸の町人文化から現代のサブカルチャーに至る庶民階層では、浮世絵や黄草子の出版業界から現代のテレビのお笑いタレント業界まで綿々と「信長志向」がそれぞれの分野を牽引している。
じつは、バブル期まで健在だった本来の日本型経営は、「家康志向」「信長志向」の合わせ技の知識経営を積極的かつ日常的に展開していた。それが長引く平成不況で就職氷河期とリストラ圧力が慢性化する中で、会社員の保身的傾向が顕著になり事業部門を横断したり外部の人間を活用してする「信長志向」が敬遠、排除されて一気に「家康志向」が一辺倒化していった。
「家康志向」の一辺倒化が組織を硬直化し社会を膠着化させるということは歴史を学べば明らかであるし、そういう多くの事例を誰もが体験したり見聞きしているだろう。その現代の最右翼が原子力ムラであり、これからは軍需産業ムラになろうとしている。


今のほとんどの日本人は、日本人の「世間」と言えば「家康志向」しか実感を持って思い浮かべることができないと思う。
なぜなら、人々のほとんどが生活基盤として帰属している「世間」「家康志向」「世間」だからである。そして、その「世間」の身内とは認められなくなって村八分にならないように既定路線に疑問や不満があっても事勿れ主義で口を噤んでしまう者が多い。

一方、「信長志向」「世間」に生活基盤としてリアルに帰属している人は、それぞれの業界で組織人でも個人としての資質で言動し互いにそれを尊重し合える有志がネットワークする意欲的な「世間」に帰属する一部のキーマンやオピニオンリーダー、そしてベンチャー企業を仲間と立ち上げて積極的に多方面とコラボレーションしている創業メンバーや創業まもない社員くらいである。そのような人間関係の有りようを見た事も聞いた事もないその他大勢にとっては、「信長志向」とは、NHKの大河ドラマの坂本龍馬や勝海舟の世界や、オンラインの集団型対戦ゲームの世界の非現在、非現実の話となっている。


そんな日本人の大方が「信長志向」と縁遠くなっている状況の現在、いくら中国人に、日本人の集団志向には「信長志向」があって、あなた方と同じ「合情理法」の日本人もいるよ、と言っても分かってもらえないだろう。
ここには複雑な経緯がある。

じつはバブル期までは本来の日本型経営が健在で、業界や会社によっては90年代前半くらいまで「信長志向」が展開していた。組織人でありながら個人としての資質で言動を外向きにも展開して内向きにネットワークするといった活動である。経営トップ自らが外部ブレインを一本釣りしたり、ナレッジマネージャーであるキーマンのミドルが社内外の人材をネットワークしていた。
組織に依存しない彼らは「信長志向」であり、人間関係づくりも中国人と同じ「合情理法」だった。ただ中国人の場合と著しく違うのは、経済的メリットに直結させようとすることは稀で、業界人として新しいユニークなことをしたい、しようとしている者を応援したい、という仕事を趣味にしている者たちの仕事をネタにした「群れ遊び」だったことだ。

「群れ遊び」とは戦後昭和、子どもたちが家業の労働から解放され、塾やお稽古事で多忙になるまでの昭和20年代から30年代にかけて、近所の学齢の違う子どもたちが自分たちで遊びを工夫して群れ遊んだことを言う。そこではリーダー格の年長者が幼稚園くらいの年少者にも役割を割り振ったり安全を見守ったりした。彼らは学校から帰ると空き地に集まったり、誰かが各家を呼び回ったりして、居合わせるメンバーで今日は何をして遊ぼうかとわくわく相談したものである。丁度、子どもの時に「群れ遊び」をした世代が仕事が趣味の大人になって、仕事をネタにした「群れ遊び」で個人の資格で半分趣味、半分仕事のような交流を展開したのであった。
この話をすると、若い世代は、今はインターネットのサイトで知り合った者同士がオフ会をしている、そのようなものでしょ、と言う。しかしそれとは全く違う。
オフ会は、サイトのテーマがあって必然的にそれに関心がある者が集う、集えばだいたい会社の名刺を交換してどこの会社で何をしている人間だと自己紹介し合う。ところが「群れ遊び」的な集いは、実力があるだけでなく面白そうな奴だとお互いが認め合った者同士が自然に集まり、誰それが認めた人ならという信頼関係で人のつながりができていく。お互いのしていることやこだわりを知り合うと、ならば一緒にこれをやりましょうという話が自然発生していった。そこは中国人の「関係」にかなり重なる。オフ会と違って、むしろ中国人の「関係」に近く、先にテーマではなく、個人のつながりができ、そこからテーマがそれぞれに自然発生するのである。



著者は、現在の日本人のほとんどがそうであり、彼ら自身がそうであり続けたいと望む「組織人の日本人」について、こう述べている。
これは「家康志向」に一辺倒化した現在の日本人の本質を鋭く言い当てている。

「日本人は、組織を信頼している(筆者注:かつてはそれが合理的な判断だった。終身雇用が崩壊しリストラ圧力が常態化した現在ではその信頼は信仰ないし願望でしかないが、それでも「家康志向」一辺倒化に慣れ親しんでしまったほとんどの日本人は、それしか頼れるものはないと感じている)。会社や役所に勤務すれば、一生社員として給与をもらえる。だから、組織が家族のような意味合いをもっている(筆者注:あるいは、そうであってほしいと希望している)。

 組織に入ったら、建前では家族の一員であり、自己人と同じ位置づけになる。組織に入ってしまえば、組織に依存しているかぎり、個人としての自己人熟人もいらなくなる
 だから、外部の人との関係は、外人としての関係で済ますことができる

「日本人は、組織に所属しているかぎり、組織内での人間関係がしっかりしていれば、外部の人との関係を個人的につくらなくても、生活上困ることはない。
 だから、『外』の人との関係づくりをするぐらいなら、その時間をなかの人との関係づくりにあてる


また、著者は日本人と対照的なこんな中国人の<情>の有りようについて触れている。

中国人の優しさ、思いやりは、誰に対しても自分の思ったことをハッキリというところにあります。
 自分の考えを正確に相手に伝えるのを礼儀と考えています(筆者注:『情理一体』)。
 自己主張であるから、思ったことを曲げていってはならないのです。
 相手の意見と反対であっても、遠慮せず自分の考えをいうことが誠意であり、優しさとなるのです。

 逆に、相手が自分の意見をもとから知っていて、それに合わせて思ったことを正直にいわないと、それは優しさではなく、不誠実ということになるのです。(中略)
 相手も自分と同じように思ったことをハッキリといってほしい。そこで違いを議論し、答えをキチンとだしていく。
 厳しさと優しさが背中合わせになっているのです(筆者注:『中庸』)」

「いっぽう、日本人の優しさは、相手を慮るやさしさです。相手が何もいわないけれど、多分こんなことをいってほしい、こうしてほしいと思っているに違いない。そのことに気づかないように、相手にもわからないように、そっとお役に立つことをしてあげよう。相手にわかるように何かをしてあげることは、相手も傷つく可能性がある。自分がやってあげたことが、見えないようにやってあげることが大切だ」
私が思うに、こういう日本人の、お陰さま、とか、陰徳を積む的な思いやりは美徳である。だが、それが形骸化して組織や集団のルール化すると話はまったく違ってくる。

いわゆる「空気を読め」とか「空気の読めない奴KYはだめだ」といった今の日本人の論調や常識は、相互に呪縛しあっているだけのように感じる。
それは相手への思いやりではなくて、思いやりの強要とそれに応じているかどうかの監視でしかないのではないか。
だから私は「空気全体主義」と呼んでいる。

日本の企業社会に「空気全体主義」が蔓延してしまったのは、長引く平成不況で日本型経営が短絡的に全否定され、経営が「家康志向」一辺倒化し、人材の主体的な流動性が失われて会社にしがみつくようになってからだ。
「外」の人間に対する排他性と、「内」の人間同士の同質化圧力とは2つセットで社会を後退させるだけの集団心理となっている。
その<情>たるや、サバイバル競走の激化や足の引っ張り合い、ストレスで心を病んだり職場イジメが増大するなど、同僚を仲間として思いやる余裕などない人間関係は文字通り「情けない」状態である。

無論、サバイバル競走の激化や足の引っ張り合いは、中国やアメリカにもある、というか日本よりもっと苛烈にある。
しかし、社会全体に人材の主体的な流動性があり、「内」の個々の人間同士が徹底的に喧嘩をして自分が勝ち残るか、勝てなければケツをまくって辞めるなどする。
今の日本の場合、どこまでも集団志向で、職場イジメに我慢してでも組織に帰属し心を病んだり、会社が一方的に押しつけるリストラに反対の運動どころか文句の一つも言わずに応じる。場合によっては過労死したり自殺する人もいる。


独立したり起業したりする人が減った、という以前に、独立や起業を希望する日本人が減ってしまった。
このことと、海外に出たくない、海外勤務になっても早く国内勤務に戻りたい、なるべく郷里からも出たくないといった日本人が増えてしまったことは、時期的にも心理的にも重なっている。
日本人は昔から一般的に「内向き」であると言われてきたが、こうまで徹底していなかった。バブル期そして90年代前半くらいまえは「外向き」の日本人はもっともっと多く、一流大手を辞めてまでMBA取得しようとアメリカ留学する社会人もかなり見受けた。今は、大学生の留学希望者も激減している。これは経済的な事情のせいばかりとは言えない。

おそらく、日本人の企業社会が「家康志向」一辺倒となって四半世紀、その間に社会人はもとより、会社勤めする親御さんと文部官僚の意向が反映する学校社会の影響で子供たちまでが「家康志向」一辺倒となってしまい、日本人全体の<情>が「内向き」になってしまった。
それが、日本人に特徴的な「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」から個性や多様性を奪い、没個性と画一性を強いるようになってしまった。
そして今や怖いのは、没個性と画一性に限界づけられている大衆が、自分たちは十分個性的で多様であると信じていることである。


こういう意見を聞く。
昔とちがって今は、東京と地方で差がなくなった、ネットで情報は得られるしイオンモールもユニクロもある。昔よりも優秀な人材があまねくいる。だから、わざわざ東京に出て行かなくてもいいし、海外に留学しなくてもいい、と。
そう言い切る根拠は何か。
単に「人と同じ」「横並び」だということでしかない。「人と同じでない」個人としての個性、「横並びでない」個人としての生き方、そういう言わば「顔のある個人」の概念が捨象されている。「顔のない万人」を前提とした話であり、その前提であまねく優秀な人材がいるというのである。それは似たり寄ったりで容易に他者と交換できる機械部品のような人材ではないか。そして働く職場の方もそれで事足りる機械のような会社になっている。

日本人の<情>起点、ということには大きな弱点がある。
それは、中国人の<情>のように「情理一体」ではないため、確固たる拠り所なく自然主義的に移ろいやすい、具体的には状況や気分に流されやすいということ。みんなと同じなら、ま、いっか、で済んでしまう。
そして、主体の抱く<情>がエゴで利己的なものか、それとも大我で利他的・共助的なものかで、発想思考の成果が真逆になる、ということ。
日本人の<情>が、<部族人的な心性>である自他の未分化性、人間と自然の未分化性、人工と自然の未分化性を内包することから、<情>の移ろいが一気に全体主義的に進むことがある、ということである。
大衆が一気に全体主義的に変容することは何も日本人に限らない。以上は、その日本人の場合のダイナミズムと理解してほしい。



中国人の「『合情理法』『情理一体』と日本人の「信長志向」が恊働する



「中国には、儒教の考えが深く国民の心に根ざしている。個人倫理も、治世論も、為政者の道徳規範も、儒教では、個人の心情論理を基本に、自己から他人へ、家庭から国家天下へと順に類推適用していく。(中略)
 自己を中心にして、その徳を周囲から外に広げるという、自分を中心に置く思想は儒教の考え方であり、関係論もそれを抜いては考えられない

つまり、自己を中心とした同心円として、家庭があり、国家がある。そして同じパラダイムやダイナミズムが想定されている。
これは、日本人の「お家」意識が、家庭、クラスや学校、地域コミュニティ、国家に、さらに職場や会社、業界に投影されることと構造的には似通っている。
しかし、大きく違うのは、
中国人があくまで「自己を認知表現の起点としている」
のに対して、
日本人があくまで「世間(その時々に最大化される人間関係の総体)を認知表現の起点としている」
ということだ。

このこと自体に良し悪しはない、構造的にお互い相違するということである。
集団を身内で固める「家康志向」の一辺倒化が組織を硬直化し社会を膠着化させて、個人が自己の認知表現を行かせなかったり押し殺す、そのような「世間」であれば明らかに人々は不幸であり問題だ。
しかし、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」が、「人と同じではない」「横並びではない」、時に異端や変人と言われる人材をも活用し、硬直化した組織の人材では思いもよらないことを発想し、膠着化した社会の行き詰まりを打開する、そのような「世間」であれば明らかに世の中にとって有意義であり必要だ。

また、日本人は帰属する「世間」における位置づけである「分際」=「自分」としてアイデンティティを確保する。
それ自体は良くも悪くもない。一神教の信者でもなく、儒教的感性を原理的に担っている訳ではなく、まさに日本人的に自然主義的な「縁起にのっとった<情>起点」で生きているのだからそれしかないのである。
問題は、どんな「世間」に帰属してそこでの位置づけを「自分」とするか、あるいはさせられるか、である。
さらに問題は、そのようにする「縁」を自ら手繰り寄せるのか、そのようにする「縁」に流されるのか、である。


中国人が「自己を認知表現の起点としている」ということは、前述した中国人の「合情理法」に重なる。
中国人は、たとえ国家はどうでも、たとえ会社はどうでも自分はこうすると<意>起点の発想思考をする。
それによる営みや成果は「情理一体」で一貫しているから家でも、会社でも、国家でも同時進行で同一性があるという意味で共時性的である。
つまりは、こうするAさんがいる時、ああするBさんもいる、ということで、日本人の「合法情理」からはまとまりに欠ける。ところが中国人本人の「合情理法」は人治主義でおさまりをつけてしまう。

一方、日本人が「世間を認知表現の起点としている」ということは、前述した日本人の「合法情理」に重なる。
日本人は、お国がこうだから、会社がこうだから、自分もあなたもこうするしかない、みんな我慢してるんだから我慢しましょうと<情>起点の発想思考をする。
それは理屈は後回しで場当たり的であるゆえ共時性的ではなく、理屈が通らないこともあるゆえ因果律的でもない。
そうした一々や一部始終は、日本人同士では「空気を読む」とか「阿吽の呼吸」でお互いの表情を除き合い二言三言の婉曲表現や時には咳払い一つを聞いて即座に理解するが、中国人や欧米人には分からないし、私たちも彼らに合理的に説明しきれない。
ここは「情理一体」に改めていくべきだろう。
ただし、本当に日本人特有の集団志向として改めるためには、「家康志向」一辺倒を脱却して、「信長志向」を回復して、両者の合わせ技を現代的に再生しなくてはならない。

そういう日本人自身も再活性するという前提で、日本人と中国人が交流したり恊働していくにはどうしたらいいのだろうか。
私は、
「中国人は、血縁関係のない相手と義兄弟、義理の親子、疑似家族関係を結ぶが、これも利益打算の側面だけでなく、心情と義務によって支えられている」
これを実地に学ぶのが効果的だし現代日本の企業社会のニーズに即応している
と考える。
つまり、志を同じくする中国人はじめその他の国々の外国人も含めて、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」「志縁集団」をつくりその活動を模索していく、ということである。
(「支援集団」については、
 参照:「日本型集団独創2タイプの内の1つ「信長志向」、その現代世界における活性化を目指して(3) 」
     http://cds190.exblog.jp/14661618/


これは、単に外国人社員を雇って「世界共通語としての英語」で恊働しましょう、ということなどではない。
利他的・共助的な志を共有する「縁」を結ぶことから始めましょう、ということである。
そのような大我の志を共有できれば日本人、外国人を問わず、社内の「身内」、社外の「余所者」も問わない、ということになる。
目先の瑣末な経済メリットに囚われず世のため人のための目的や目標を共有しての『合情理法』『情理一体』の志向が必要かつ有効だと思う。


「韋政通が『中国文化においては、情と理は対立しないばかりか、理は情の中にある
 ある人が情を知らないということは理を知らないということで、情に通じないことは理に通じないより深刻である』と述べている。
 血縁倫理を基礎にした中国人のもつ倫理観は『情理一体』で、中国では情理を踏まえないことは、すなわち非道徳となる。
 日本では、よい人というのが最大のほめ言葉であるが、中国では徳のある人というのが、最大のほめ言葉となっている」

いまの日本人の場合は、<情>起点でありながら『情理一体』ではなくて「情空気一体」である。
ここを改めずして国際化もグローバル化も異文化交流もなにもあったものではない。/
by cpt-opensource | 2015-09-27 04:00 | 日本型の発想思考の特徴論


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